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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

日曜散歩・早春

おはなし

中央線N駅南口から線路に沿って東の道を行くと、ひどく古い薄汚れたアパート群が並んでいる。昭和の時代にタイムスリップしたかのような印象の団地群がうっそりとうずくまっている。

昔、私が通っていた都立高校の広い校庭の片隅、テニスコートの南側にどこかうら寂し気なアパートがあって、我々はそれを「ソ連」と呼んでいた、何の根拠もない。ただいつでも冬を思い起こさせる、その寒々とした灰色のコンクリート、黒い不吉なシルエットを落とす裸の樹木、殺伐とした古びた四角い建築物の住宅に我々の「ソ連」のイメージはあったのだ。

N駅のはそれとは違うんだけど。

同じように、コンクリートの四角い能率的な住居、いやにちまちまとしたそのつくり、汚れた黄土色の壁、ガスのメーター、牛乳瓶受け。暗い廊下に小さな階段、低い天井。薄汚れた重たい灰色のドア。

ソ連の殺伐とした峻厳とは違う。もっとなまあたたかくうっそりとした昭和の闇の秘密をたっぷりその小さな灰色のドアの向こう側にためこんだアパートメントへのわくわくとぞくぞくとノスタルジアなのだ。これは一体何なんだろう。

ものごころつく頃、あるいはそれ以前。近所の風景、近所の人たち、そしてまるで生まれる前の自分を超えた集合記憶のような。世界があらゆる闇の入り口、ミノタウロスの潜むクレタ島の闇の迷宮への落とし穴をたらふく抱え込み、そのドアの向こう側に無限の深淵と秘密とぞくぞくするような未知と恐怖に満ちていた時代。過去につながるその風景。

そうだ、それは例えば天沢退二郎の描いた薄暗い不可思議と不気味さを湛えた昭和の子供たちの持つ世界、その風景。(「オレンジ党」シリーズ)それは現実世界が闇の側の夢魔に浸潤されてゆく、大人たちをも巻き込んで死に近い闇がさまざまな表徴をもって子供たちに襲い掛かってくる、その夢魔のぞっとするようなリアリティのイメージを孕んでいる。

それは本来、江戸以前には妖怪や地霊、民俗学的な信仰によるムラ的、集合的な世界観の異界が受け持っていた死や世界の不合理、その闇、カオスにつながる部分だ。ぺかぺか明るい合理だけで世界を構成しようとする近代文明が否定し覆い隠そうし閉じ込めようしたその闇は、光の部分、日常の合理的な世界をかき乱そうとするその闇は、人間の心の闇、あるいは死の影は、しかし決してその存在と力を失うことはない。(それは以前は日常生活に密着しながら民俗信仰的な儀式や民話信仰などによってロゴス世界と関係性を持ち「うまくやっていた」ものなのだ。)だからそれが否定されたとき、それは別のかたちになって噴出する。つまりここで極めて昭和的な文明の網の隙間を縫って噴出してくるスポット地点を持つことになったのではないか。封印される闇、夢魔、死と異界の部分。

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オレンジ党シリーズはざらりとした決して快いばかりではない読後感を持つが、読みだすとなんだか読んでしまうのだ。→アマゾン見たら復刊されてますな。

…そしてそれだけではなく。わくわくするような楽しさを含んだ温かいファンタジーの可能性もその未知は含んではいる。扉の向こう側の夢の連鎖する世界、異世界、それは例えば星新一の「ブランコのむこうで」的なイメージ。

これは、少年がドッペルゲンゲルにふらふらとひかれて入っていったドアの向こうでさまざまな人々の夢を渡り歩く冒険をすることになる、なんとなくサン・テグジュペリ星の王子さま」や賢治の「銀河鉄道の夜」を思わせる、星新一にしては珍しい中編、というか連作短編のような形式の童話である。→「ブランコのむこうで」星新一

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…時折さあっと春の薄日がさしてあたりは粉をまいたような淡い明るい光にまぶされて、日曜の夢の向こうのぼやけた白昼夢。建物の間の細道の向こう側に見えるぽかりと明るいミモザの黄色、アリスの庭園。いつかの日、私は講演会だか習い事だかの母を待ちそこで遊んでいた。合成された記憶の集積のワンシーン。

…というようなことを考えながらうすぼらけたあいまいな早春の陽射しの中さまざまのひとたちの行き交う町の風景の中をふらふらと楽しく歩いた。確かこのむこうに図書館があった、と思い出しながら。

図書館は目的地だ。

目的地の向こう側に世界はない。そこで私の世界の舞台はおしまい。

こんな風に図書館の向こう側に世界の果てを感じ、図書館で読みかけの本を読み終え、またふらふらとタイムロードをたどって現在に近い駅に戻り、吉祥寺まで電車に揺られてゆく。

沈丁花と梅の香りがどこからともなく街中を漂っている。