酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

アルメニアン・ダンス

姉の友人がファゴット吹くというので誘われてアマチュア吹奏楽団演奏会に行ってきた。(ファゴットはかっこいい。賢治の詩にも愛妹追悼関連の一連の挽歌群の中に出てくる。電車の中で聞こえてくる、葬送行進曲のテーマだ。青森挽歌。従って私の中でファゴットの音色とはすなわち葬送の響きである。)

パイプオルガンに天使の像の素敵なこじんまりしたホールである。クリスマスにこのパイプオルガンでゴスペルコンサートなんかいいだろうなあ。

常々一度あれを弾いてみたいというほのかな憧れを抱いている。ホールを包み込み浸してゆくハルモニアが、あの振動がこの手から生み出されそして生み出された振動にこの身体が浸潤されてゆく感覚、あの荘厳な響きがこの指から世界中に響いてゆく陶酔を想像すると頭がくらくらしてくる。世界に響き渡る音楽と共振し一体となる、己の内部がその音そのものとなって外部へと拡散してゆく自我拡大という官能。

 素人楽団なのでそれほど期待しない心つもりで行く。けど、ホールの独特の色彩、空気感。そわそわと開演を待つこの雰囲気に包まれるのはやっぱりいいもんだ。

で、問題は曲目だった。

アルメニアン・ダンス パートⅠ&Ⅱ」

 高校時代、吹奏楽部に所属、トロンボーンを吹いていた。(将来の夢は場末のバーの酔いどれトロンボニストであった。)言っちゃあなんだが今思えば本当に青春をかけて皆で作りあげたという言葉にふさわしいあの演奏会、その思い出の曲だったのだ。

あの夏の日々、繰り返し繰り返し練習した曲。

思い入れのある曲だからだろうか。すごくいい曲に感じられた。民族衣装を着て踊る人々が思い浮かぶような。

トロンボーンパートが見せ場盛り上がり部分でもうバリバリに響かせてくれてものすごく気持ちよかった。ひとつひとつのリズムが、メロディが私の身体の中に刻み込まれているあの音楽が呼び出されて私の存在と一緒に外に流れ出て響きの中でひとつになってしまう。身体が楽器の触感を覚えている、その重さと操作感を憶えている。スライドを操作する腕の動きが再現されてしまいそうになる。呼吸を思い出す。タイムスリップする。音楽は再現されるごとに無時間の永遠の時空をそのダイナミクスの中に作り出す。

あのクラリネットの寝癖頭はT君だ、あのサックスはM君だ、ティンパニをたたいているのはT先輩だ。セカンドトロンボーンが私で、隣のファーストはS先輩だ。

あの頃感じたのと同じように、ひとつの音楽を、ひとつの躍動する美しい宇宙を一体となって作り上げようとす る、ひとりひとりが律せられたパートを受け持つことによって全員がひとつの全体性としての高次の調和になろうとする、その無心の祈り、イデア、芸術、美へ の祈り。その緊張感に満ちた皆の呼吸が感じられる。

高校のあの夏の練習の日々がもりもりよみがえってきて、もう聴いてるだけで自分が演奏したようにぐったり。懐かしさで泣きたいような、…これはきっと至福と呼ばれるナニカである。

歌舞音曲はサウンドとムーブメントという身体性に根差した官能によって演じるものと観るものの差異をひとつの概念の中に無化してゆく力を持つ。音に、動きに身を任せる観客と、歌と踊りの中に自我を埋没させ、その枠組みから逃れてゆく演者は、そこにひらかれた、日常時空の外部としてのダイナミズムに満ちた祝祭空間で出会い、そこで一つのものとなる。舞台とはこのような現象のことを言うのだ。

さながらこれは、アボリジニたちのいう「ドリーム・タイム」。

彼らの古来の宗教的世界観だ。それは時間の概念を超越した神的メディア空間。天地創造の時代のことであり、大地が生まれ、宇宙が創造され、動植物が独自の形になった遙か昔、全能の神や精霊たちが活躍する時代。

この時間とはすなわち無時間であり、そこで現代と過去の隔たり、己と他者の境界は曖昧となる。

神話を語る、演じる行為によって「夢の時代」と現代は融合する。「今、ここ」の成り立ちの物語を、そのアルケーを確認する祝祭空間、歌舞音曲、カオスにつながるものであるハレによってロゴスに発するものであるケは新たにその生命を取り戻し、日々を生まれなおすことができる。

日常現実の物語の枠組み、限られたアイデンティティの枠組みの中を生きるデイタイム、そのアルケー、その外側への解放を保障するのがドリームタイムなのだ。そこで人は「今を生きる」「己の人生を生きる」ことと、「永遠を生きる」「アイデンティティの枠組みを超える」こととを融合させ、世界全体と一体化しなめらかにつながっていくことができる。