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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

涙と笑い

さて。

毎度おなじみべろべろアル中の夜、ものすごく久しぶりに中島みゆき(古いやつね)を聴いてすっかり昭和な心持に浸っている。思えば中学生のとき生まれて初めて自分のお小遣いで買ったレコードは中島みゆきの「生きていてもいいですか」であった。「別れ歌」とか「誘惑」とか「悪女」とか「時代」とか、夜中にゴンゴン聴いてましたな。実にかわいい女子中学生である。もちろん布団の中でオールナイトニッポンとかも聞いてましたな。高校に入ると戸川の純ちゃんとかYMOとかムーンライダーズとかそういう方に走るんだが。

いや~聴いてしまうと時代の空気とともに思い出深い懐かしい情趣にはまってしまうものでな。

で、泣き節にじいんと浸りながら思ったんだが。

自分、実生活で悲しいことやつらいことがあったり本読んだり映画やドラマを見てボロボロ泣くとかあんまりそういうことない。

うんと悲しかったり感動したりは一応ちゃんとするんだけど。

涙とか笑いっていうのはだな、システムだと思うんだ。お約束。それはいうなればカタストロフの身体反応。心の表面のもの。こういっちゃまあ語弊があるとは思うが。そりゃあ表面とはいっても表層からかなり深い層までの振幅はある。(それが技芸の優劣だ。)だが人間の、個人の、その魂の深奥のところに直接の涙や笑いはない。物語による涙や笑はあくまでも物語の制度に組み込まれた計算されたパブロフの犬的な反応に過ぎない。その涙や笑いがどんなにソフィスティケートされた上質なかたちのものであっても違いはない。個性というのはそこではどの物語に反応する個であるかという選択的なタイプ分けに過ぎない。そしてこれは別にその涙や笑いが浅薄なものであると貶める主張なのではまったくない。それはただそのようなものとしてもともとあるのだ。心は表層だろうと深層だろうとすべて連動し連続体として存在するものであり、いずれも等しく心としての価値である。

では、その魂の深奥というか個人の個人たる所以、あるいは逆説的にそのアイデンティティの枠組みを超えたところにある「外側」、世界とは、物語、制度的な計算式から逃れた絶対真理としての「我」はここでどのように位置づけられるのか。そしてそこにおいて表層からの物語というシステムコントロールによってもたらされる涙や笑いの感情はどのように意味を持ち作用するのか。

あらゆる物語の構造を、精神システムを分析しつくしたとき、分析不能なものとして最後に残るもの、攻殻機動隊草薙素子の言う、魂、ゴースト。漱石の「文学論」の言う、文学が〈F+f〉として数式化されたときの〈Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに附着する情緒を意味する〉計算不能な現象の付着物、情緒fとして示されるもの、魂の深奥、真実、真理とは。

…その正体は、虚無、真空、カラッポ。論理の、ロゴスの、外部だ。それはただすべての意味の力が、エネルギーが求心力となってひたすら求める自己の中枢、心理の真理、その内側が超ー外部へと反転するところ、「消失点」なのだ。

物語のもたらすFに付着してくるfはFという概念から導き出されてくる制度的な生産物である。(情緒、涙、笑い。)それは付着物としてのみ生まれることのできる抽象であり、Fという本体がなければ生まれることはできない。だが、そのfこそが、それが実体を持たぬ抽象としてのFの付着物であるが故に、形をもってロゴスとしてとらえることができぬゆえに、本来不可分であるはずのFというシステムから離れた純粋に透明なダイナミクスとして機能し、物語の支配の枠組みから逃れた魂の深奥、空白の真理のフィールドを志向し、そこに肉薄し、その輪郭を浮き上がらせることができる要素となりうるのだ。換言すれば、それこそが物語の神髄ということだ。非常に逆説的ではあるが。

 

すべてのFはfを志向するためための形骸的なシステムとしてのメソッド。そしてだが形式としての具体の手触りを持つFがなければ、抽象につながる指標としてのfはない。

とても不思議でずっとひっかかっていたのだ。新古今(だっけなあ。うろおぼえ。とにかく万葉がうんと古い歴史的クラシックスタンダードになったころ。)の頃の、貴族の典雅な歌のやり取りによる貴族の恋愛ごとが、万葉の人々の相聞歌、その恋愛をなぞらえることによってはじめて己の中に恋愛感情として認識されるという心理のシステムを教わったとき。

たとえばそれは或いは小学生が漫画や本を読んで、お兄さんやお姉さんの話を聞いて、物理や数学や英語、という科目に高校生のにおい、青春、大人なカッコよさ、あこがれを感じ、いざ自分がその中にはまり込んだとき、これこそアレなんだあっと思う楽しさ、という晴れがましいわくわくした感じに似ている。本や漫画の中のハイスクールライフをなぞらえる。あるいはそれは伝統ある大学に入って、その伝統の流れの一部となった己に陶酔し、六大学野球の後で先輩の伝統にのっとって日比谷公園の池に飛び込んだりする行動にもつながっている。古今東西、皆おんなじだ。それは、「ああ、これこそがこういうものなんだ。」という「物語(への参加、登場人物となる恍惚)」である。

先人の感情になぞらえられて初めて己の感情に形を与える、認めることができる。個は自立できない。…物語なしには、人間は一切の意味や感情を持つことはできないのかもしれない。

だが、それを自覚したときなお残るものに思いを深めるとき、その構造の向こう側にあるもののことを我々は考えることができる。それは、個を限るがその外側への目印を示す。両義のメディアだ。