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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

キリン3

おはなし

干し柿が送られてきた。

年末、田舎からの荷物。野菜だの餅だののこまごましたものの中に一袋。

母さんが、庭の柿で毎年拵えるんだ。あれはすごくいい柿の木だし母さんは熟練干し柿職人だ。今年はいいのができて地元の農産物コンクールで優勝したなんていって自慢してた。

懐かしいな、あの味。

オレは急に嬉しくなって、ウキウキとその夜のつまみを考えた。

ちょっといいバターが残ってたからあれをのっけて、ウイスキー。レーズンバター的なつまみになるんだ。クリームチーズとくるみのかけらのっけて赤ワインでもいいな。果肉のとろりとした濃厚な甘みとチーズのこってり、ごくほのかな酸味が絶妙に赤ワインなんだなあ。

「バターはやめときなさいよ。あんなの不健康よ。」

キリンが横から余計なことを言う。

「あれうまいんだよ。すっげえ上等なんだぜ、なんせお仏蘭西のエシレバター。甘いミルクっぽい香りが素晴らしくてな、こっくり柔らかなベルベットみたいな舌触り、コクがあるけどすうっと抜けるよな口どけの爽やかさで。」

「上等だろうと下等だろう脂肪の塊は脂肪の塊よ。動物性脂肪、飽和脂肪酸!甘いのなんかに合わせたら最悪ね。コレステロール血液どろどろ中性脂肪ぶくぶく。」

うるさいなあ。

最近キリンはオレの生活にいちいち文句つけてくる。
とろけた黄金色のバターみたいな透き通った甘い黄色にヘーゼルナッツみたいな優しい茶色の瞳。きれいな奴なんだけど口が悪い。

「とろけたバターなんてホメてないわよ。ちびくろサンボのトラじゃあるまいし。」

「…ちびくろサンボってなんか差別用語らしいぜ。出版禁止とか放送禁止とかじゃねえの?」

「いつからここは言葉魔女狩りの国になったのよ。バカじゃないの。やってらんない。」

「…バカなんだろうな、まあな。」

 
とりあえずオレはキリンに素直な性格なのでバターはやめておく。(キリンが別の事で頭がいっぱいになってるときこっそりやろう。)キリンはモノ食わねえから な、観念だけでできたエクトプラズマな生き物ってのも困ったもんだ。アブラっぽいだけの粘土みたいな不味いバターと天国みたいなふうわり極上の発酵バター の違いもわかりゃしねえんだよ。あれじゃあちびくろサンボ読んでもぐりとぐら読んでもあんまりおもしろくはなかろうな。

「バカね。あたしはあんたの生身の感官に寄生した観念メディア体よ。あんたが身体や心に何か感じたときのその心の波動で生きてるんだから、そんなの全部知ってるに決まってるじゃない。あたしこそあんたの感官の精髄そのものよ。」

 
相変わらずキリンってのは言ってることがよくわかんねえよ。
 
仕方ないから去年の「うかたま」秋号なんか引っ張り出してきて干し柿レシピ特集をとっくりと眺める。大体レシピ雑誌の中ではオレは「うかたま」が一番好きだ ね。 「きょうの料理」とか「天然生活」も悪くはないけどな。…まあ「暮らしの手帖」は別格だ。「ご馳走の手帖」とかな。あれはな、あのフォントの暴力的な 説得力のせいだ。もう何が書かれていても易々と説得されてしまう。問答無用の全面降伏。
 
「大体飼われてる側が圧倒的に優位になってるんじゃなきゃ世の中成り立たないでショ。負うた 子には素直に従うってのがセオリーよ。あんたはあんたのまんまじゃキリン・ネットワークの深遠さも膨大さも理解できないけど、あたしはあんたのアンテナに なってるから、身体性も精神性もいっしょくたで、感官波動としてぜええんぶわかってんの。人間が時間なんていうつまんないもの発明して残り時間を気にするようになる前の時間のモトがたっぷりつまったとこ知ってんのよ、あんたのいう時空に縛られた身体性の真実なんて全部組み込んでるワ。それが寄生する立場ってもんよ。」

…ホント全然わかんねえ。

 *** *** ***

 
結局冷蔵庫のブリーと砕いたアーモンドを詰め込んだもので、赤を開けた。
うん、なかなかイケる。やっぱりいい味だなあ、さすが母さん金賞受賞。
 
そこらのスーパーのくちゃくちゃしたゴムみたいな安物とは風格が違う。(結構アレも好きだけどな。)透き通るようなオレンジの果肉の表面の肌合いが唇にふわりと触れ、口の中にはぽってりねっとりとした柔らかな風味が広がる。秋の陽だまりの凝ったような深く豊かな甘みに、庭の柿の実るさま、母さんが軒に柿を干しているシーンを思い出した。収穫、剥いて、吊るす。子供の頃は随分手伝わされたものだ。あの作業の手触りを懐かしく思い出す。小さな子供は縁側で母さんと一緒にせっせと大量の渋柿に立ち向かっていて、ゆっくりと傾いてゆく大きな西日に照らされていた。
 
その夜は金曜の夜で明日は休みだった。大きな仕事が片付いたばかりなのでオレはすこぶるゆったりした夜を過ごしていたんである。干し柿のねっとりした上品な甘さにじゅうぶんにクリーミーなブリーのわずかな塩気、アーモンドの香ばしいコクが絶妙だ。自画自賛。葡萄酒の杯もすすむ。
 
小さくかけたラジオからは、ザ・バンドだ。ライフ・イズ・ア・カーニヴァル
 
オレが喜んでるとキリンもうれしいらしい。ボトルによりかかって明後日のほうを向いてはいるがなんとなくそんな顔をしている。
どれくらいこの感じがわかってるんだろう。
 
「これうまいだろ?わかってるのかな。」
「そうね、これくらいね。(アタリマエヨ)」
 
何がこれくらい?、とオレは聞きかけてやめた。
 
 
そのとき、空気がいんいんと震えるような青銅の鳴るような深くあまやかな振動が身体の芯から響いてきたのだ。
 
最初それが何なのかわからなかった。身体の芯から響き出だしたように思ったその振動は身体全体を貫きはみ出し、部屋中に拡散し、あたり一面が振動のようなメロディのような音韻に似た波動でみちあふれ、空間は変質した。

…キリンが歌っているのだった。

 
そうか、と思った。キリンはキリン・ネットワークに吸収され解釈されたオレの味覚体験をこんな歌に変換してフィードバックしてくれてみせてるんだ。感官の感じたものが脳内電磁信号となり、それがキリンを通じて永遠にあらゆるかたちへの自在に変換しつづけるエネルギイ磁場にとりこまれてゆくキリン・ネットワーク。その感官がばらばらになって解放されてゆくフィー ルドのエロスが一瞬ちらりと見えたような気がした。
 
ザ・バンドが巻き込まれて共振してやがる。

 *** *** ***

 

「いいな、それ。」

ずっと歌っていてくれよ、とオレは頼んだ。いいわよ、とキリンは答える。ずっとずっと、空気の中に響かせてあげる。キリン・ネットワーク・ラジオステーション よ。チューナー設定しておくから。ノイズとか歪みが入ることもあるけど、それはチューナー本体じゃなくて自分のアンテナ関係の方にある問題だからアンテナ微調整すること。
 
干し柿ステーションね。」
「もっといい名前ないのかよ。」
「じゃあお母さんの干し柿だからマザーステーション。」
「近未来宇宙SFみたいだな。キリン・ラジオでいいよ。」
 
キリン、知った風な口きくわりにはつまんないネーミングセンスしかもってない。
 
 
…とにかくそしてそれ以来、気が付くとその振動はいつでもオレの中で鳴り響いているものとなった。
 
いつでもだ。
ふと気が付いたとき、それが自動チューナーONモード。
意識を向けたときそれが既に意識の中で鳴り響いていたことに気づく。識域下で常に鳴り響いていたことに。
 
その感覚は、気づいた瞬間ふと心がほどけるような安心感をもたらした。それは大きなもの高次なもの、その次元の違う世界、はかりしれない精緻な論理をもった世界と己の内部がなめらかに重なり繋がっているというそのことに「気づいた」感覚だった。キリン・ラジオはそこからの通信とメッセージを繋ぐメディアだった。
 
それはオレの存在を包み守ってくれる柔らかな光の繭だった。それに包まれていればいつどんなときでも自分は大丈夫な気がした。その外側で何があってもそれは膜一枚向こう側の遠いお芝居、絵空事の世界。ざらざらした世界の中の突き刺すような悪意も攻撃もその繭の光に柔らかくたわめられ、その閉ざされた現実空間での矮小な正体を明らかにする。より大きな真実と繋がる時空にいるオレの存在を傷つけることはない。
 
音楽に、包まれている。
 
 *** *** ***
 
ボクは眠っている。遊び疲れて昼寝してたんだ。
目覚めたとき今がいつで自分が誰なのかわからなくなって、その不安と寂しさで母を呼ぶ。
 
かあさん、かあさん。
 
隣の部屋で縫物をしていた母が笑ってやってくる。
縋りつく。
 
母は笑う。
「どうしたの、怖い夢みたのね。」
 
そうだ、悪夢を見ていただけだったんだ。夢の中で変な未来の夢だのなんだのを見て散逸してしまっていたボクはボクを取り戻して大切な絶対の日常を取り戻してほっと安心する。
 
 *** *** ***
 
キリンの歌う旋律は、その音楽はつまりそんな音楽だった。
 
 *** *** ***
 
高校を出てから、一度も帰らなかったのだ。
 
母さんは帰ってこいなんて一言も言ったことがない。(時折「お嫁さんは?」というような探りを入れてはきたが。)父も家業を継げと強要したことはない。小さな町の小さな工場でただもくもくと働いていた。
 
オレの田舎は東京からそんなに遠いわけじゃない。急行で二時間のところだ。もう20年になるのか。
 
 
受験のとき迷わず東京の大学を選んだ。町を出たかったんだ。
 
田舎に閉ざされることを、自分自身を形成した繭が牢獄となり、そしてそこに閉ざされ囚われてしまう自分の一部を、自分の尾っぽをオレは恐れた。未来がほしかった。
 
大学を出て、生きていくことでただ一生懸命だった。東京で、なんとか暮らしていけるようになった。それで十分だった。愛したひともいた。もういなくなってしまったけど、幸せだった。
 
故郷を思うことはなかった。
 
…と思っていた。ふと時間に隙間ができて老いてゆく両親と親密でありながらも息苦しい人間関係を思い出したときは、ただその中で一生を終えることを恐れた。
 
キリンが歌っている。
 
そうだ、閉じ込められることを恐れる必要はないのだ。本当は、誰もどこにも閉じ込められる必要はない。
 
音楽を抱く。世界に満ちる旋律を捕まえる。なにものにも閉ざされる必要はないと歌い続ける旋律が、本当はこの世界には瀰漫しているということにきづきさえすればよい。
 
帰ろうかな、急行で二時間。
明日の朝、電話をして、鞄を一つ、葡萄酒一本土産にして。
 
帰ろうかな、ほんの少しの間だけ。