酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

インスタント・シャングリラ

何をやっても世界全体アホらしくてダメという日はまああるもんだ。

街には梅の香が流れ桃の花がほのぼのと咲き、春めいた陽ざしに包まれた日曜を過ごす街の人々の風景は心楽しい。

友人にゴリ推しされて観始めた「アドベンチャータイム」にはすっぽりハマってるし、うっかり読み始めてしまった「よしふみとからあげ」はこんなものに、と不覚に思いながらも深夜部屋で一人で腹筋痙攣させて笑い転げた。吉田篤弘の人を食ったスタイリッシュな文体も相変わらず素晴らしい。「ほら男爵」的に饒舌な物語の嘘八百に真実を混ぜ込む心憎さ。その虚々実々な言葉のかけひき。

世の中にはこんなにも素晴らしくバカバカしくも高度な知性とセンスが楽しく正しく満ち溢れている。

 

なんだけど。

ダメなときはダメなんだよなあ。

頭はカラッポ。(イヤいっつもそうだと言われればそうなんですが。)何やっても詮無いものよ、という大いなる悪夢に取り囲まれている。絶対的な無能感と無力感。きっと悪い妖怪が取り付いてるに違いない。編み棒をもつことすら面倒だ。

 

仕方ないから今夜は(も)缶麦酒あおって「ムーンライダーズの夜」でも聴こう。
ムーンライダーズって基本的には朝聴きたいものだと何となく思い込んでいるんだけど、このアルバムだけはタイトルの先入観のせいか夜聴きたい。)

「インスタント・シャングリラ」にはヤラれたもんだ。一時毎晩聴きながらベッドに入り、ひたすら傷ましく哀しく美しいもの、愛に似た気持ちに浸された安らかな眠りについた。

…いや、今吉田篤弘の新刊「電球交換士の憂鬱」読んでてこれ思い出したんだよね。「ソラシド」読了してからこっちに流れたら、全部に共通するテーマを見出しちゃったようでちょっと興奮したんである。

「インスタント・シャングリラ」はオウムの事件を歌った歌だってことで有名で、歌詞もメロディもリズムもそれにふさわしくなんとも重たく暗い憂愁に満ちたものだ。が、そうありながら、その重たさを抱えたまま、凛としてまっすぐなものへと飛翔しようとする、透明な知性と、暗く鈍い輝きを放つ解放への意志に貫かれている。

「仕事でなく遊びでもなく生活でもないとこへ ファンタジーでもないとこへ行ってみたいもんだ」

うめくようなその歌声のメロディと同じ節にのせて繰り返される

「この世の99%説明ついてること 残りの1%小さな景色にいたい」。

己の考えを投げ渡した信仰の向こう側にお手軽なシャングリラなど存在しない、テレビ(作り上げられた物語)の向こう側になどそれは存在しない。「栄光と呼ぶには程遠い、かすかな中に革命はある」と歌はアジる。

…ああ、まただ。またあれだ。「羊をめぐる冒険」の、あの鼠の科白、あの系譜

(「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさもつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「…わからないよ」)

己の心をまっすぐ見つめたとき、それを突き詰めたとき最後に残るもの。それは「弱さ」という絶対的な反権力なのかもしれない。すべての「強さ」は大きな声の物語に属するもの、その論理の中に発する「力」「権力」なるものであるから。武器を、強さを得ようとする行為はとりもなおさず何かを圧殺しようとする「大きな声の物語」への能動的な隷属を意味するからだ。

「わからなさ」への思い、大切なものへの愛。パンドラの箱の底にあるもの。…それを歪めようとする99%の大きな声の物語に己の魂を取り込まれないための決意、1%の小さな景色、かすかな風の歌に感覚を研ぎ澄ませる。意志としての透徹した知性がここには示されている。

…で、「仕事で遊びでもなく生活でもないとこへ」というのはわかる。だが「ファンタジーでもないとこ」、とくると、「え?」となる。ここがミソなのだ。そうだ、一見とらわれたところでない内面への飛翔であるかと思われるはずのファンタジーもいまや強さと物語のフォルムの一つなのだ。(形式を得た宗教の論理)より洗練された狡猾さをもって己自身の内部に仕組まれる権力の物語。

…じゃあ、どこへ?

これはやはり同アルバムでの鈴木慶一の歌詞による「黒いシェパード」の次のようなラストのイメージにも繋がっている命題である。

「恋人よ みちづれよ 雲と風だけ 身につけ
詩と歌を 登りつめ 川の始まりを 見るよ

恋人よ みちづれよ 雲と風をも 脱ぎすて
自分らの 尾の生えた 川の始まりに 流る」

雲と風(その前の一節で、「一行の詩、ぼくの雲、風」とうたわれているものであり、「詩」として定義されている。)以外を脱ぎ捨て、そしてさらにはそれすらも脱ぎ捨て、源流に還る。

(ふと、無念無想に至る瞑想のためのテクニックの話を思い出した。いきなりすべてを無にすることはできないので、まず、一本のろうそくの炎だけをひたすら見つめ、意識を集中し、他の考えを退ける。それをマスターしたら次がその炎からも意識を離す、といった段階に至るメソッドらしい。)

ここには、時間の川をさかのぼる、ひたすら己の内部、心象の過去へとさかのぼるイメージがある。あとから身に着けたもの(言葉、物語)を次々と脱ぎ捨ててゆく。生まれたところ生まれたときの姿へ、はじまりの地へ。そして源流へと還元されてゆく。あるいはまた今あるアイデンティティすべてを投げ捨た後の何かに賭ける、あるいは再び流されるものとなるために。

死と再生。その一つのスタイルの選択。

端的に言えばそれはひとつのかたちをもったものとしての己の死の覚悟のイメージなのだ。そしてそれはあらゆる物語のアルケーへの意志でもある。

「詩と歌をのぼりつめ川の始まりを見るよ」。

時間、川の始まり、ロゴスの始まり。その向こう側はカオス、換言すればロゴス以前、世界と主体の死後未生の領域だ。「一行の詩残せたら/山が燃え沈んでも/生きたことになるだろう」というコーラスを背後に伴いながら、他者の物語を脱ぎ捨て、己の物語すらをも、すべての物語の残滓を払拭し自由となるためにすべて脱ぎ捨て、つまりは主体そのものを手放し、存在にとってのタブーであるその源泉へと還ってゆく。

…ここが「わからなさ」の地点だ。
この、主体と世界、すべてのロゴスの消失点。始まりの向こう側を希求するところ。

かなしみを嘆き、原罪の重荷を問い、何もかも脱ぎ捨て己をも脱ぎ捨て、ひたすら還ってゆこうとする慶一ヴォーカルの声とは別のところから発される世界の声としての女声コーラスはしかし先のように、存在の肯定をささやき続ける。

己の「このかたちでの(今生での)」生きた証は一行の詩、心を刻印した詩にのみ託される。かなしみも絶望も、どんな形であっても存在した事実はそれ自体だ。如何に否定されようと、自己否定によって解体する必然をもった存在であったとしても、その意志それ自体を歌うこと、そこには逆説的だが存在の肯定がある。己の生きた証。存在の証、存在 の意義。脱ぎ捨てることによってその脱ぎ捨てられたすべてを愛する詩を得る、外部から肯定し抱きしめる視点を得る、否定と肯定の矛盾の止揚される風景を得る。

 *** *** ***

「電球交換士の憂鬱」の「おれは皆と違うところに立っていたい。この世とかあの世とか、そうした言葉で限定されるところではなく、皆のいるところから『外』に出てゆきたい。」という科白は、「ソラシド」での、二律背反、そのジレンマと双子の死と生のテーマの行き先に正確に対応している。

理不尽をそのままに超克する、外部へ。

…たくさんの人が同じことをそれぞれの違う言葉で懸命に語ろうとしている。

それらは響きあい増幅し自立しながら連帯する。
(自主自立連帯はわが母校のスローガンだ。)

 

…まだオレは生きている。まだできることはあるかもしれない。
もしかして。