酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ふつかよい

本当に弱くなった。
大した量を飲んだわけでもなかろうに土曜朝から一日中ふつかよいの雲の中。

足元フラフラめまいクラクラ、全身半分麻痺していて身動きするのもおっくうで何か考えるのもおっくうで、希望も欲望も絶望もなく世の中すべてリアリティ失って薄皮一枚向こう側の夢。実にまったくオツムテンテン生ける屍である。

だが普段の苦痛もまたどこか遠い感覚の雲の向こう側にあって、麻痺状態。

…これはこれでなんか幸せである。麻痺陶酔。酔生夢死このまま行きたい生きたい逝きたいものだ。

 

おりしも二月の異常気象で世の中はぽかぽか春風。

もともと方向音痴でお脳が弱いのだが、こういうふつかよい状態のときは一層その症状がひどくなる。

だからこういう日は道一本違うとこを通ってあえて近所で迷うのがいいのだ。迷子ごっこの充実。現実に身体が道に迷うと心もよるべなく時空をさすらう迷子となる。

まわりの風景が不思議な書き割りの舞台に見えてくる。夢の中のように非現実的に見えてくる。非日常の週末。自分には何もない。過去もなく未来もない、あるのは身体と心がバラバラになったような拡散した淡い感覚とふわふわ浮かぶぺらぺらの平べったい考えとぺらぺらの平べったい目の前の風景、この永遠の現在ばかり。

だがぺらぺらの浮かぶ光の海の中を踏み込むのはおもしろい。

見えてくる風景にも考えにもなんの節操もないからだ。風景と自分の内部、その内外が連動している。確かに区別なく繋がっていることに気づく。あらゆる枷から解き放たれた思考はシンタクスもへったくれもなくただバラバラの切れ切れのガラクタになってそのへんにごろごろ平べったく転がっている。拾って歩く。おもしろい。そして歩いているだけで思いがけないものが出てきてびっくりしたりする。これはきっと自分の考えの中を歩いているのと同じことなんだろう。自分の中を、その奥の記憶の中のひだひだを押し分けるようにして夢の中のように進むのはおもしろい。無秩序。カオス。発見。ほとんどこれはアボリジニのドリーム・タイムってやつだ。そしてきっと漱石の非人情ってやつだ。

角を曲がるごとに光の色がほんの少し変わるごとに風景は場面は一瞬にして全く違うものとなる。その意味と物語を孕んだ時空軸そのものを移動してしまう。トポロジー。その度にころころと転がりだした色とりどりの記憶や考えや物語、あらゆるそんなものがいっしょくたになってむくむくと湧いて出ては去ってゆく。フラッシュバック、フラッシュバック。

この風景は高校に入ったときの春、初めての生物の授業で善福寺川沿いを散歩したときの世界の色。あのビルの窓に映った光は安房直子さんのお話を読んだとき感じた風景。読んだ本も実在の記憶も捏造の記憶もすべてその記憶の中で等価なリアルとなって風景に連なる物語となって降り注ぐ。

歩く詩人賢治や街角に裏通りに道一本向こう側に物語を拾い続けた大好きな作家の系譜を思い出す。

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そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
きのこのかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行って
みんな
溶け込んでゐるのだよ
  こゝいらはふきの花でいっぱいだ (宮澤賢治「林と思想」)

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流れていってしまう、この手の中に捕まえられないのだけが切ない、惜しげもなく降り注ぐ、一瞬の永遠、たくさんの考えや物語。

 

ひとりぼっちのふつかよい。ことほどさように寂しく楽しい。

 

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やっと抜けてきたかと思う頃飲み直してるとかもうオレダメ。