深夜、漱石の「猫である」を読んでいると絶対に猛烈に蕎麦が食べたくなってくる。
迷亭君がツウぶってツユをほとんどつけず噛みもせず、ひどく苦しそうに涙をにじませながら大量の蕎麦をひといきに飲み込む、極めて食欲をそそらないあのシーンである。だがあれを読むとなんだかものすごく迷亭君とおんなじようにして蕎麦すすりたくなってくるのだ。不思議である。私だけだろうか。
…蕎麦屋で飲むのが好きである。
友人やこいびとと粋な蕎麦屋で日曜の昼からだらりと飲むなんていう過ごし方が昔から夢憧れであった。
大学時代ゼミに入ると、なんだか周囲の人間も大体同じような嗜好をもっていたので飲むというと蕎麦屋になったりして嬉しかった。
そして中央線沿線はうまい蕎麦屋が多いのだ。
蕎麦を注文するとまずおろし金と山葵の茎がドーンと出されてきたりする。蕎麦を待ちながら山葵スリスリすってるとカレの到着が待ち遠しい気持ちがもりもりと盛り上がってきて楽しい。
蕎麦が好きだし蕎麦屋が好きなのだな。
大体蕎麦屋のつまみというのは気が利いている。
〆の蕎麦はやっぱりせいろう。
これが基本。冬だろうと何だろうとあったかい蕎麦なんかダメだ。
…だけどまあいろいろ選択肢があると目移りするというのもまた人情。
なめこおろしなんかはたいへんよろしい。
山かけもなかなかよござんす。うずらの卵落としたやつね。
世の中何かというと天ぷらそばを持ち上げる輩が多いように見受けるが実に嘆かわしいことである。あったかい天ぷら蕎麦なんかに至ってはあんなのもの頼む人間の気が知れない。きっと日本人じゃないんだろう。
ツユはね、やたらと甘いのはダメである。
でも大体の蕎麦屋のツユは甘い。
甘いツユより生醤油に辛み大根のおろしで食べる方がずっといい。
(これは泉鏡花の「由縁の女」に出てきた和尚さんの食べ方。食べ物の嗜好っていうのは半ば以上観念でつくられるもんだから当然本からもおおいに育まれるものなんだ。)(ぐりとぐらのかすてらとかちびくろさんぼのホットケーキとか。)(海外児童文学の中の異国な食べ物にも憧れた。メアリーポピンズのツルコケモモのタルトとかジンジャーブレッドとか。当時は出回ってなかった。)(川上弘美も未知のこの食べ物に憧れて、食パンに紅ショウガを挟んで粛々と食し、遠い異国のおやつに思いを馳せたそうな。)(馬鹿である。)
…これまでで一番気に入った蕎麦屋は、南阿佐ヶ谷の地下鉄駅近くの細い裏通りの小さな店。確か、慈久庵とかいう、信州からやってきた蕎麦職人が夫婦でやってたとこ。
そこのツユが感動的に甘くなかったんである。まったく甘味がないきりっとしたすがすがしい辛みうまみ風味、すごくおいしかった。
つまみのメニューもいちいち凝ってて選ぶのが楽しい。信州の謎のキノコやら山菜やら味噌やら麹やら使ったような、地元の伝統の不思議でおいしい食べ物。蕎麦ももちろん非常に素晴らしかった。更科じゃなくて黒っぽいの。香りが濃くて、でも透き通るようにうつくしくてのど越しは上品。迷亭君みたいなツウな食べ方試したくなるような粋を感じさせる一品。お店はこじんまりちいさくて静かでこぎれい。居心地ヨシ。
…ただだけどそこは、ものすごく高くて、ものすごく量が少なくて、ものすごく感じが悪かったんである。あれだけ素晴らしくおいしくて洒落たメニューでありながらつぶれてしまったのも仕方があるめいというレヴェルで三拍子そろっていた。
なにしろびっくりするほど感じが悪かった。
職人の旦那の方は奥でひたすら蕎麦打ってたんでよくわからないが、給仕をしてくれる女将さんの方がこれがもうものすごくて。
最初、ひとめぼれの逆のひとめ憎悪、一瞬にして初対面の人間を嫌悪する謎の現象が彼女の病んだ心の中で起こったのかと思った。営業中の札のかかった引き戸を開けた途端、あれはサムライが親の敵を見抜いた瞬間の目つきであった。今にも噛みついてきそうなその目つき、強い意志によって固く引き結ばれた唇の無言で迎えられたんである。一緒に行った友人もあとから同じ感想をもらしていたし、別の友人と行った時も非常に驚いて「入った瞬間何か悪いことしたかと思った。」という感想を述べた。
愛想がないどころではない。完全に怒ってるぞモードの対応なんである。何か聞いてもぴしゃりとはねつけるような高飛車さでけんもほろろで怖いったらない。
もったいない。あれだけのもの出すんだったらうまくやればファンがくっついてうまくやれただろうになア。
甘くないツユだしてくれる蕎麦屋にはあれ以来出会えない。
全体世の中甘すぎる。