酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

漫画とか

映画や演劇には詳しくない。

 
圧倒的に音楽と書物、五感のうち単品しか使用しないで鑑賞するものを愛好するタイプの人間である。
 
 製作者サイド、既成の物語要素一方的に押し付けられるとだめなんである。情報が大きすぎるとだめ。時間的拘束にイライラしてしまうことも多い。「間」とかの時間配分での仕掛けもおしきせの向こうサイド。まあツボにはまるとそれがたまらないんだけど。
 
映像、ムーブメント、音楽、時間配分。ガッチリこってり調味済み味の素クックドゥスプーンが口につっこまれてくる。とにかく向こうサイドの仕掛け条件が多すぎる。(一度のっかってしまうと楽ではあるが。そしてそれがものすごい好みのおいしさで絶妙なタイミングだったりすると究極の「ヤラレタ!」な至高体験になるってことにはなるんだけど。)…つまりあっち側のお膳立て領域がおおきくて、こっち側の脳の作業のプロセス、その段階領域が少ない。
 
書物による物語鑑賞が読者の読解レヴェル(サイズ)にフィットさせるオートクチュールなら映画鑑賞はプレタポルテだ。
 
情報に欠損があればあるほどそれを補填するために受け手が作動すべき脳の作業プロセスは多くなる。己のイマジネーションから生み出されてくる要素が大きくなる。
 
たとえば、場面に同じ「赤」が登場するとき、実際に映像で視覚的にその赤が与えられてしまうのと、言語によって「咲きたての薔薇のような澄んだ明るい赤」とか想像するしかないのとでは赤の意味が違ってくる。いくら科白で「咲きたての薔薇のような赤だね。」とか登場人物にその現物の赤を補足説明をさせたとしても、それはあなた(制作者)の人生において固められてきたイメージの中の薔薇の赤が私の視覚に押し付けてくる赤であって、その今見せられてる視覚的刺激要素の現物の赤に帰納されちゃう、お仕着せにされちゃうということでは今一つ違ったりするのだ。それは私の人生において描かれてきた咲きたての薔薇のイメージとは違うんだから。それは思考停止の赤。
 
正確に言うと作品理解の諸段階の問題である。
五感というツールを単独で、或いは複合したさまざまなやりかたで活用し、その感覚の受け取った信号をオーガナイズする脳の最終作業段階、その行きつく目的地、作品を受胎して生まれる読者側のその固有性に染め上げられたオリジナルな世界、「意味の領域」はどの道を通っても同じものなのだ。クオリア、というのだろか。本当は、すべて批評的なるものは、そこからスタートする。だからただ、今議論しているのはそこに至る手続きの領域。意味に至るまでの電気信号的なレヴェルの部分のことだ。
 
言語は本来感覚器からの電気信号として脳に呼び出だされるべき感覚野を純粋な記号と観念をのみ通して呼び出だすプロセス、シニフィアンからシニフィエを呼び出す手続き、いわば「ツールとしての論理構造」を持っている。
 
書物は、欠如から成る(言語の記号的認識以上のものではない)。ここでしかしその貧しいひとつの記号は、その「欠如」によって、逆に、現実の役者などの生身を持った人間によって限定されることのない、自在にはばたく自由な想像力の可能性となる。「ツールとしての論理構造」のプロセスを経て呼び出される疑似的感覚体験、そのプロセスのレヴェルが己の想像の自在さの保証される領域であり、書物はその領域が最も大きなジャンルだということなのだ。言語によってオリジナルにイメージを呼び起こすひと手間がかかる。だが読者の脳髄側でのそのひと手間分、おもしろさ、そのはばたく空の可能性の幅は広がり、オリジナリティの度合いは高くなる。
 
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とりあえずチャート式に。
 
(文字だけの本→絵本→漫画)→(アニメーション→実写映画)
 
与えられ定められたレディメイド情報量の多さからいえばこういう感じなんだけど。
 
演劇っていうとまた全く別格になる。次元が違う。音楽を聴く際の、CD聴くのとライヴに行くのとの違い。観念の領域とは全く別次元での現場性、己の身体性をまきこんだ双方向性が関係してくるから。それは語り部の語りついできた口伝の物語と文字化された読書の違いでもある。
 
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まず文字だけの本から漫画へという段階から考えてみる。
 
漫画というジャンルは好きである。
子供の頃、母は私が本好きなのは認めていたが漫画を好むと異様に蔑んだ。これは当時の少女漫画の文学性の高さを知らぬ世代の弊害なんじゃないかと思う。
 
文字情報だけの本と絵に文字解説をつけた漫画というと圧倒的に漫画は脳の作業段階が少なくなる。視覚的情報が補完されてしまうから。オリジナルのイメージを言語から想起させる手間(醍醐味、真髄、楽しさでもある。)が省かれるから非常に楽にストーリーにはいることができ、読み進めやすい。楽である。作品評価のポイントは文字だけの書物とはまた違うところに設定されてくる。
 
文字以上(或いは図像以上)、動画未満。絶妙の生半可地点にある表現形態。これがいわゆる我が国が世界に誇るMANGA、サブカルチャーとして独自の発展をとげたのは周知のところではあるが。
 
これはしかし、「百聞は一見に如かず」といった、絵画、映画に見られる直観的な視覚的芸術分野の特色を備えつつ、吹き出しによる登場人物の科白、その外に書き込まれる解説、独白、効果音(擬態語、擬音語)というエクリチュールの要素を、フォントその他で直観的視覚的効果の要素に拡大して自在に表現する、その「自在な配分」に特色がある。我が国において、才能の系譜がその表現形態としての自在さを得て水を得た魚のように花開いた文化、これは世にも稀なる幸運によってその特色を得た複合表現形態であると思う。
 
重要なファクターとして、吹き出しによる科白と埋め込まれた独白、(心の声)語り手による解説、それらともに自在なコマ割りが挙げられる。読者においては、コマとコマの時間的断絶を、脳が繋ぐという作業が行われる。その狭間の断絶(「間」)或いはムーブメントは脳が補完するものとなるのだ。
 
静止画でありながら独自の躍動感を両義として備える仕組み。
 
繰り返すと、具体的な日常をなぞる感覚的論理的情報、ロゴスが不完全であればあるほど、換言すれば日常の「リアル」と信じられている情報が欠けていれば欠けているほど、遠ければ遠いほどに脳はそれを補完するために新たなるロゴスの構築を、大いなる想像力の、創造力の発動を余儀なくされるものとなる。そのオリジナリティ、個的な「オリジナルのリアル」が解放され自在に躍動し、世界をあざやかな生命力をもってきらめかせる。他者の物語の、その標本としてのテクストを己の中によみがえらせ参加し体験する創造的能動的な読者となる。
 
そしてここで、言葉が「語りすぎてしまうのもの」を図像による暗示によって回避する、というもうひとつの一見正反対に見える要素が喚起されてくる。たとえば余計な解説、説明、形容詞は逆にイマジネーションを阻害する、という言語の弊害。先ほどの咲きたての薔薇の赤でいえば、その赤を見つめる登場人物の無言の瞳の画像の表示によって、その表情、その動作の描写によって、赤そのものの視覚的刺激とは別のコンテクストによる赤へのアクセスが生まれる場合。
 
…これは一見、先ほどとは逆ベクトルを持つ主張からの
 
(言語>視覚的刺激)→(言語<視覚的刺激)
 
という変調なようだが、そうではない。正確に言えば
 
(言語>《言語を解釈したものとしての》視覚的刺激);(言語<《非言語としての》《演繹によってそこから言語を限りなく生み出す可能性そのものとなることのできる》 視覚的刺激)
 
の図式の並立する場の提示である。どちらがより優れた表現方法であるかという議論ではない。
 
つまり、言語によるアプローチにしろ直接的な視覚刺激による表現形態にしろ、その「赤」、という中心点、シニフィエ、真理、イデア、の部分を、解釈がなされた形で「直接指し示す描写」は不可である、ということなのだ。そこはがらんどうである必要がある、読者側の脳の作業領域のための、不可侵、不可視の神域である必要がある、ということなのだ。
 
テクストにより、読者の側の脳内に受胎される世界創作という自由。再生されるたびに輝きを変える、そのたび生まれて生命を得る無限の赤のバリエーション、その総体、それ自体空白である赤のイデア
 
場面場面に応じた最適な「空白」を生み出すための、双方の表現手法の「イイトコドリ」を可能とする、ノンバーバルな視覚的刺激とバーバルな表現の狭間を自在に行き来する表現形態、それが中途半端な立場に置かれたハイブリッドメディア、漫画の可能性である。
 
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…で、動画レヴェルである。アニメーションと実写、そして3DCG。
 
たとえば昔のアメリカのアニメーション。トムとジェリーや、ディズニーのダンボや不思議の国のアリス、あの躍動感、なめらかで独特な動きは、芸術ではあっても「リアル」ではない。
 
いうなれば、リアルよりもリアル。歌舞伎の女形が女性よりも女性であるという、観念的なイデアとしてのリアリティである。現実はみなこの芸術を模倣する。
 
ディズニーアニメはスタッフ全員がラリッて拵えていたという神話もあるくらいだが、ダンボが酔っぱらってピンクの象の幻想と戯れるシーンなど、あながちそれも嘘でもあるまいと思わせるクレイジーさがある。現実の物理的制約に縛られることのない自在な世界の躍動のイメージ、その喜び。純粋なムーブメントへの志向性…。それはいうならばクオリア、視覚を越え、脳に直結した観念としてのムーブメントである。
 
さて、私はどちらかというと実写よりはアニメーションの方に嗜好がある。
 
この、自分のアニメーションへの嗜好は、この形態でなければ表現しえない脳内の不定形で奔放なイメージを最も近いものとして表現することができるという、その奔放な自在さに由来するんじゃないかと思っている。実在の風景や役者の条件に縛られない、現実の外部風景に迂回することなく記号としての画像から脳内に翻訳解釈し、ファンタジーの描写をより脳の観念レヴェルに直結したかたちで実現させることができる。イラスト、キャラクターは写実であることをハナからあきらめているために、己が記号であること、単なるシニフィアンに過ぎないものであることを隠さない。そのミメーシスとしての手法。現実より真実を追おうとする直接的手法である。
 
3DCGアニメや特撮によって実写と融合された昨今のハンパにリアルなファンタジー映画(ハリーポッターとかアナと雪の女王とかああいうの)となると、これは全く質が異なる。(ああいう映像は基本的に好きじゃない。ゲーム世代の奇妙なヴァーチャル。現実の裏返しに過ぎないあじきない虚無を感ずる。)あれらの一見ファンタジックな魔法のきらめきは、寧ろ子供だましとなる。イメージが日常現実の物理的制約、既成の枠組みの現実という物語におもねった形で脳内の画像イメージが迂回するからだ。
 
昨今の少年成長譚的なアクションストーリーにのせた扁平な魔法と剣の定型ファンタジーよりも寧ろ実写映画のテクニックによるイマジネーションのほうがよほど想像力を刺激するファンタジー性に優れているという気がする。寧ろアニメーションのよさも実写のよさも殺してしまう、漫画の成功とは逆の方向に行ってしまった失敗例っていう気がして仕方ない。…これは現状におけるあのジャンルの作品群の文学的価値、という観点に偏ってモノ申してるから愛好家からはお叱りを受けそうだが。
 
ただ、技術や映像の美しさは、確かにものすごいものだし、これはもちろん使い方次第のツールだから、これからの可能性の分野であるのかもしれないとは思っている。
 
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実写について述べようとすると、いろいろ風呂敷が広がりすぎる。だが、ひとつ。
 
これまで述べてきたすべての要素が一つ次元を上げた形ですべて実写表現にあてはまる、という一見今までのべてきたことをすべてをひっくりかえすような、矛盾しているような主張を予告しておく。これは自分用のメモでもあるんだけど、つまり、カメラを通した風景は既に撮影者によって切り取られた物語の一部、つまり現実を模写した「絵」であり「記号」シニフィアンとして扱われるべき要素である、という大前提の確認である。
 
…これらすべて、鑑賞の作法についての文章だと受け止めていただくとありがたいと思う。