酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

悪夢ということ。ナルニアとファンタージェン

悪夢、あの暗闇に囲繞された世界観について考える。
 
やるせない絶望と閉塞と虚無の闇に浮かび、辛うじて息をする先の無い苦い暗い日常生活、世界の解釈。そんなものはもともとなかったのだ、と、幸せの存在自体が蝕まれてゆく、その記憶さえ読み換えられ否定されてゆく。逃げ場のない死と虚無の絶望。
 
悪い出来事や嫌なことがあった、そのような因果関係や原因をもつ論理システム内の物語や状況によるものなのではない、より根源的なレヴェルに感情は堕ちてゆく。前提と結論としての絶望に縁どられた世界。(具体的な原因はトリガーにはなるけれど。)根源としての闇と虚無。希望など幻であった、という説得力。そんなフィールドに。
 
その歴史ごと、世界そのものの否定、滅亡。
 
 
…真実と幸福=神の王国=イデアの概念とその現世における存在の否定の仕組みに関して、ナルニア国物語「銀のいす」(C.S.ルイス)に非常に興味深いシーンがある。
 
…「ナルニア国物語」シリーズは我々世代にとって海外児童文学のバイブルなのではないかと思う。小学校低学年のころ出会い、なんの前提知識もなくただおもしろさに夢中になった。衣装ダンスの向こう側に広がる別世界。ものいうけものや精霊たち、巨人、魔女や魔法、冒険、戦い。その創世と終末までの神話の世界、一大叙事詩のようなスタイルをもった壮大な物語である。
 
少し読み直してみたら、前提の知識が加わったせいで、今更ながらものすごいキリスト教臭に仰天した。これは子供向けの布教の書、洗脳の書と揶揄されているというのも無理はない。物語としてのおもしろさとは別の、思想性を抽出し分析するおもしろさに目が行ってしまう。
 
分析、というのは微妙だな。物語の登場人物の科白や語りの言葉に託された激しい信仰心。分析しながら感動するのだ。その深みに、その意志に。何だろう、この優れた知性が敢えて信じようとしているものは、そのかたちは、と、どんどんどんどん知りたくなるのだ。キリストのメタファともいえる絶対者、ライオンのアスランアスランにまつわる描写がいちいち示唆に富み信仰的な警句や暗喩に満ちている。
 
(…だけど実は、子供の頃の読み方の方が実質として双方のおもしろさを純粋に贅沢にまっすぐ受け取り己の中に滋養としてすとんと消化していたのかもしれない。血肉としていたのかもしれない、とも思う。)(そしてそれこそがうまうまと洗脳されているということなのかもしれんのだな。)
 
で、さて、「銀のいす」は、学校でいじめっこにいじめられた少女ジルと少年ユースチスが二人で逃げこんだ石塀のドアの向こうがナルニアに通じていたところから始まる。そこで二人はアスランの命令を受けて、夜見の国の女王にさらわれたナルニア世継ぎの王子リリアンを救いに行く冒険に出る。
 
夜見の国は、地下の国。永遠の闇に閉ざされた死の世界だ。ジルとユースチス、そして案内の泥足にがえもん(この変な名前のナルニアの沼人の超・マイナス思考発言キャラクターは絶品である。)は地下人たちに捕らわれ、地下の国の中を連行されて女王のもとへと連れていかれる。この長い地下の国の闇の中を幾日も旅してゆく中に、地上の光の実在が、そのリアリティが皆の心の中で失われてゆく描写が非常に巧みなのだ。
 
「それからいくど、寝たり起きたり、食べたりしたことか、だれもおぼえていられませんでした。(中略)いつもいつもこの船の上、この闇のなかでくらしてきたような気がしはじめた(中略)そして、もう太陽も青空も風も鳥も、夢にすぎないのではなかろうかと(中略)三人がこうして、なにかをのぞむ心も、なにかをおそれる心も、ほとんどなくしかけたころ…」
 
とうとう女王の居城にたどり着き、魔法にかけられて正気を失った捕らわれの王子リリアンの魔法を解くことに成功した後、四人は女王と相対する。が、女王は再び全員を幻惑の魔法にかけようと画策するのだ。思考力を奪う、甘い香りの幻惑の香を焚き、眠気を誘うハープをつまびき、とろけるような甘い声でささやかれる惑わしの言葉、実在であったはずの世界をただの夢だったとして言いくるめようとする惑わしの魔法。
 
「あなたがたの話していらっしゃる太陽とは何ですか?そのことばは、何をあらわしているんですの?」
「あのランプをごらんください。あれは丸くて、黄色い光を出し、部屋じゅうを明るくしています。その上、天井からつるさがっています。いまわたしたちが太陽と呼んでいるものは、あのランプのようなもので、ただはるかに大きく、はるかに明るいものなのです。それは地上のあらゆる国々を照らし、空にかかっています。」
「ほら、おわかりですか?あなたは、太陽とはこういうものだとはっきり考えてみようと思うと、よく説明ができないでしょう。ランプと似ているとしか、おっしゃれませんわ。あなたの太陽は、夢なんです。その夢のなかでは、ランプをもとにしてかってに考えるほかにはなかったのですわ。ランプは、ほんとうにあるものです。でも太陽なんて、つくり話ですわ。」
 
太陽も空も星もアスランも、地下の国の現実のランプや土天井やネコを見て、その向こう側の素敵な力のある理想を想像した夢、子供じみたごっこあそびの妄想だとする女王の惑わしの魔法に陥落しそうになる子供たち。
 
だが沼人が最後の信仰の意志の力を振り絞って香炉の火を踏み消し、敢然と立ち向かう。
 
「あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみなーつまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭の中につくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただひとつ実際にある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはまったくなさけない世界だと、やりきれませんのさ。(中略)たとえいまみちびいてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしはアスランを信じますとも。あたしは、ナルニアがどこにもないということになっても、やっぱりナルニア人として生きていくつもりでさ。」
 
信仰という最終的な救済の核心がここにある。どのような否定的説得もこの信仰の意志の下には無力である。
 
次元を一つ繰り上げて考えれば、ここには、真理の国、神の国が実存であり、今のこの現実は寧ろその影なのだとする論理がある。真理の国、イデアを信じる、その信仰による論理的跳躍への意志、その激烈なる主張がある。
 
現世を寧ろ影であると定義づけることによってイデアを設定し「実存させる」信仰の構造、その智の力。…これは、想像、創造の力に似る。信仰の対象へのイマジネーションがなければその実存を信じることはできない。
 
またこれは、闇と虚無に囲繞され浸潤された悪夢の構造、そのネガポジがちょうどきれいに反転した構図であるともいえる。現実は閉ざされたカプセルの中で真実の光を垣間映す虚像であり、真実はその外側に広がるいちめんの輝きである。それが信仰という認識のかたちだ。イデアは信じる行為によって想像され創造されそして実存に至るもの。
 
信じる者は救われる。
なるほどねえ。ほんとになあ。
 
求めよ、さらば与えられん。
だからね、求めるっていうのが、そこに至るためのハードルが一番高いんじゃないかと思うんだ。求める力は実存を信じる力、想像する力。それは「力」だ。
 
悪夢に閉ざされる心は、叩けば開かれる門を叩くことができない状態ってことなんだろうなあ。
 
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もうひとつ、悪夢、その虚無の恐怖の感覚に関して、どうしても思い出してしまうのはエンデ「果てしない物語」だ。
 
本の中の世界、滅びゆくファンタージェンの物語。その、虚無に蝕まれてゆくファンタージェンのイメージ。あれは例えばこういう感覚の隠喩としても考えられるのではないか。そこでは想像力の枯渇がすなわち生命力の枯渇であり、その力を失った途端に世界は虚無に浸潤されてゆく。
 
ファンタージェンの女王「幼ごころの君」(ファンタージェン世界全体の象徴)の病を癒すのは読者であった現実世界の想像好きの少年、バスチアンによる新たな名づけによってのみ可能であった。新たなる名の付与は、すなわち新たなる生命の付与。ファンタージェン、世界はそのとき再生された。(この作品は読者の立場を視野に入れた「語りの階層」を強く意識した入れ子型、非常に実験的な物語構造をもっている。)
 
世界を想像する力とはすなわち世界を創造する力であるということなのだ。もともとはカオスであり、ロゴスが生まれ光が生まれ言葉が生まれ名付けられることによってすべての事象が光として存在を始めることができる。
 
…神を創造する行為である。
 
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己が被造物であるという確信は己を創造した神を創造している逆説をはらんだ行為なのではないかと思うのだ。それを己の内部に超ー外部なものとして設定する、というと語弊があるが、己の内側にその侵すべからざる絶対の外部の領域を見出すのだ。すべて宗教的なるものを信じるという行為の定義とは、ミクロからマクロへの反転構造を己の中に仕掛ける行為として考えられる構造をもつなのではないかと、なんだかそんなことを考えている。