酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ラヴソング

二人で不動産屋巡りをした挙句、結局荻窪駅近くのほどほどのワンルームに落ち着いた。

駅から1分である。シャワーだけじゃなくてちゃんと素敵なタイルのお風呂もあるとこは私が気に入ったのだ。

ただ日当たりよくないねえってそこんとこかなり気になったんだけど、Y君の方はそれはあんまり気にならないっていってポンと決めた。

「どうせ日中は会社だからさ。」

 

週末になると、阿佐ヶ谷のうちからのそのそ歩いてころんとそこに転がり込んだ。

そうすると、寝ぼけ眼のY君がまずごろごろと豆を挽いて二人分の珈琲を入れてくれる。まあ豆を挽くのは交代だったがな。

豆が切れたときは、連れ立って駅向こうの珈琲屋に出かけて行く。豆専門店である。珍しい豆がそろってて器具も凝ったもの売ってて楽しいとこだった。生豆を注文してから好みに応じた焙煎をしてくれるシステムで、焙煎する間、珈琲一杯二人分たっぷりサーヴィスしてくれる。二階の店は日当たりが良くって、豆の焼ける香りいっぱいの金色の光に満ちた時空だった。豆屋の店主のゴタクを聞きながら珈琲のあれこれ議論したりしてね。

焼き立てでまだあたたかい豆の袋を抱えて、一人暮らしの彼の週末の買い物あれこれつきあって、なんだかんだつれづれな話をした。

そんな日々。
部屋に帰ってきてて、なんだったかなあ、ラジオだったかTVだったかCDだったか。

とにかくなんだか流行歌、きれいな顔立ちをした若造男性アイドルが踊りながら歌うような流行歌か情感たっぷりな演歌か何かだったのだ。流れてきた歌。あまりにも陳腐で商業的なラヴソング。

不意に彼は眉をひそめて持論を語りだした。

「世のモテないバカな女たちがさ、こういうラヴソング聞いてかっこいい男の子に自分が愛の告白されてるってその気になってうっとりしてるだよな。目がくらんで金使ってさ。」

…あきれた。コイツこれでも文学部か。

アホウはキミである。

まあね、そういう女性たちがこういう歌の売り上げに貢献しててあの業界が成り立ってるんだろうけどさ。だけど、彼の論が、あろうことか私の愛好する男性アーティストのラヴソングまで一緒くたにしだしたので私は大層ハラを立てた。(私は結構短気なのだ。)

で、そのラヴソング愛好者への「オマエは身の程知らず自惚れお馬鹿」軽蔑決めつけは文学部の誇りを捨てた発言である、と抗弁したんである。

キミのラヴソングへの評価はその程度か。そんな貧しい歌の聴き方しかしてないのか。カワイコちゃん女性アイドルに入れあげるオタク男子より賢い女の子は多いんだぜ、と。

歌を聴くとき、そのメロディに乗せられた心を聴くとき、小説を読むとき。
物語はどうやって心の中に展開されている?

よく考えてみろ。読者としての自分、主体の位置を。

語る側、歌い側の主体に寄り添いながら、客体、その愛の対象ともなっている。恍惚はそこにある。愛してる、と歌う衝動とそれを受け取る喜び、それにきっちりとこたえる己の中の衝動、陽だまりのような明るく優しい確かな己の存在価値への発見の喜び。ラヴソングを聴くとき、主体は双方に分散され、さらに読者としての観客としての「外側」の意識もそこに倍音として響く。共振されている。

読者としてのその「外側」の意識がキモである。愛を歌う主体であるというテーゼがあり、愛を受け取る客体であるというアンチテーゼがある。それが止揚されたところにあるのがラヴソングだ。どちらでもない読者のレヴェル。ただ広がる愛の世界を鑑賞する、それを感ずる喜びの純粋という己の枠を既に失った世界の豊饒、それがゲイジツってもんだろ。

…はるか昔の議論のことなど思い出しながら、浴びるように酒を飲みながら。独り部屋でラヴソングメドレーなんか聴く深夜である。