酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

加工度

持論として、情報も料理も加工度が低いほど好ましいと思っている。誰かの脳味噌と情報操作フィルターを経た情報はわかりやすく口当たりよくこなれておいしい、消化しやすい物語であり、誰かが、自然物、素材にたらふく恣意的な味のコントロールを施した料理もおいしい。
 
生のままの世界が己に触れたとき、感官からおのずと湧きいずるような衝動、己と世界すべて一体となった官能という地点での「存在」の実感とでもいうべき感覚への畏敬の念と愛と歓びに突き動かされた創作。素材を生かしながら料理人の個性と洗練、才能、そのためのスキルによって磨き抜かれた美しい作品、優れた情報や料理という創作行為(メディア)の存在は、それ自体は意味や物語を持たない、固くこなれにくい素材を不可視の世界から可視の世界に変換させる。翻訳する。消化可能なかたちへと。
 
その「かたち」は、もとはただ可能性、マトリクスとして存在している素材(生の世界)に意味と物語を与え、やわらかくうつくしく調味し、受け手に世界に対する喜びと感動を与えるメディアとなる。受け手固有の思想や心身に、自然からの、そして媒介者(作者、表現者)からのエナジイの統合体を、美を与える。歓びを生み消化を助け成長を促し滋養となる。良質な調理。伝統の精緻な道筋に則った、或いは驚くべき個性のオリジナリティを持ったその調理法。一次創作。それはさらなる創作を生むだろう。あらゆるオリジナルな輝きを交えながらたくさんの読者が作者へと変貌し、そのメロディを変奏し、互いに交響曲のように響きあう、ヴァリエーションとしての二次創作へ。世界を映しあうインドラの網としての文化へ。
 
正しい味覚を育てるもの。
それは決して素材の気配を消さない。媒介者、創作者は己を素材(神の次元に属したもの)の媒介者として自覚し、それを支配するのではなくただ翻訳する、トーニングする。素材の中にあるあらかじめさだめられたかたちの像を感知し、ただそれを見出すこと取り出すことと念じ続け彫り続ける天才彫刻家の意識のように。支配権は向こう側にある。神の手。神の言葉、預言的なるもの。「取り出す。」
 
…が、「調理」がその思想性を失い、経済に魂を売り渡した結果、経済は一方的に神の次元からのエナジイ、世界を収奪しようとする暴力となる。刺激と快楽を部分的に抽出しひたすら欲望におもねった歪んだ刺激のみを追求した結果は、味覚の鈍麻であり麻痺であり、コンビニ化学調味料フードに侵された生命の尊厳の凋落であり醜悪な肥満と生活習慣病である。過度にお涙ちょうだいや正義の快楽感情を煽る芝居がかった音楽やせりふ回しにコテコテに味付けされたニュース、バラエティ、イージーなドラマ。それらに駆逐されたマスコミやエンタテイメントの良心、その喪失の結果が、自分の頭でモノを考えない衆愚の大量発生、ひいては憎しみの連鎖の発生である。かそけき味わいの圧殺。小さな声の圧殺、メディアに支配権を奪われた「外部」(素材。生の世界)との交感の喪失、深淵の喪失。
 
 
用心しろ、コテコテの刺激的な味わい、神経を逆なでするような激しい情動を備えた情報には注意しろ。正しいものには用心しろ。
意識しろ。なんの操作をされた情報なのか。味付けの原料は何か、その味わいの狙い先、意図はどこにあるのか。己自身に巻き起こされたその感情はどのような物語から来ているものなのか。
 
調味された情報の向こう側のマトリックスへの意識をもて、その現場の微細な情報を、その持つ可能性のあらゆるヴァリエーションに、すべてリアルに向けて想像力を。その世界の示しうるマキシマムな可能性の豊穣をそのメディアごと、まるごとそのものとしてトータルに感知しろ。
 
…なあんてね、思うんだけど。ひとりひとりが自分の頭でその自覚をもつことが、いろいろ惑わされなくて世の中いいことになる道に通じるんじゃないかなんて思うんだけど。なにが自分においしいのか身体の声の求める正しい味覚を、何が自分の心に喜びなのか見極めること、選ぶこと、その正しい判断を。「我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則」(カント)だ。法則を見極める。或いは意志として決断する。
 
 
でもね、普通それってわかんないっちゃわかんないし。わかったような気がした次の日はまた見失うし。まあ強くなければ実現できない、弱い者の存在そのものが否定されないための権利の救済ってことはさ。毎日忘れては思い出さなきゃいけない日々新鮮にいちいちめんどくさいもの。
 
アレだな、アレ。昔のコマーシャル。「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」
優しいだけでは死んでしまうしかないからね、結局強さがないと。強くあることと優しくあることの並立の困難さの事を思うよ。天才と英雄にしかできないよな気もするよ。
 
小さなこと一つ一つ、意識するだけのことって気もするけど。
 
…春樹の「羊をめぐる冒険」の鼠の科白が大好きなんだ。いつもいつもしょっちゅう思い出す。
 
己の記憶の中の生きる価値のある世界の美しさへの執着の描写。弱さとわからなさを貫き通すことによってのみ貫かれる強さというまっすぐさ、その信念。
 
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「俺は、俺の弱さがすきなんだよ。苦しさもつらさも好きだ。夏の光や風の匂いや蝉の声や、そんなものが好きなんだ。どうしようもなく好きなんだ。君と飲むビールや……」鼠はそこで言葉を呑みこんだ。「…わからないよ」
 
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小さな小さな日々の喜び。自然の営み。
 
虚飾や技巧に満ちた大きな物語や権力、歪んだ暗い欲望によって生み出される悲劇や惨劇、そんな悪しきものに対抗できる唯一の方法は、他者の論理によらない、己自身の人生にのみ根ざしたこれら「小さな声」なのではないか。
 
 >(以下酔っ払いの寝言)
 
…とか何とか言って結局自分はとにかく全部をわからないものへとして投げだし逃げてしまったままなんだけどね。己自身の力で判断ができない。或いは、何かを選択する覚悟、意志力がない。人間としてどうかというレヴェルである。どっかで間違ってるんだな。
 
オレ判断ができないので刺激にはすぐヤられてしまう。強さにまるめこまれて負けてしまうのヨ。だからそれを怖がってたたかうこともせず、そこから己の感受性を守り育てるためのそのたたかいすらできず、ただ目をふさぎ耳をふさぎ逃げ続ける。(「自分の感受性くらい  自分で守れ  ばかものよ。」(茨木のり子
 
今の立場はその報いだ。
 
どっかで踏みとどまって選択してたたかうべきなんだな。怠惰で自棄な態度はエゴイスティックで醜悪だな。
 
だけどとにかく憧れる強さは、その基本は鼠の強さ。
 
…だからとりあえずやっぱり人の料理したものは基本的に食べられないんだよねオレ。出来合いお惣菜とかさ。食べると思うとどきどきしちゃうね。
 
で、まあとりあえずなるべく加工度の低いもの選んで食うことにしてんのよ。縄文人的な食べ物とか生野菜かじるとか刺し身食うとかそういう感じ。しかし意固地になりすぎるきらいもある。意固地に走るとバランス感覚そのものを失ってしまう。
 
ああめんどくさい。エデンの園で、桃源郷で、果樹からしたみおちるネクタルだけ摂取して生きていきたいよ。
 
…とりあえず麦酒。(これじゃダメだな。)
 
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どうでもいいけど中島らもの「全マズ連」て忘れられないインパクトで、食について考えるときよく思い出す。「全国マズいもの愛好連合」かなんかの略で、全国の不味いものを探求し愛好しようという連合で。びっくりするほどばかばかしいんだけど、なんだっけなあ。ゆで卵を食べるとき、味の濃い黄身んとこは慌てて飲み込んでしまって、あとからゆっくりと白身のぷりぷりとした無味を楽しむ食べ方とか。
 
嗜好というのは、味わうということは何か、快楽とは何か、どこからどこまでが意識と文化に根差しどこからが身体的なモードによるものなのか。
 
このばかばかしさはそういうこと考えさせてくれる。味覚のアルケーのところ。ううむ素晴らしい。