雨がぽしゃぽしゃ降ってゐます。
心象の明滅をきれぎれに降る透明な雨です。
ぬれるのはすぎなやすいば、
ひのきの髪は延び過ぎました。
私の胸腔は暗くて熱く
もう醗酵をはじめたんぢゃないかと思ひます。
雨にぬれた緑のどてのこっちを
ゴム引きの青泥いろのマントが
ゆっくりゆっくり行くといふのは
実にこれはつらいことなのです。
あなたは今どこに居られますか。
早くも私の右のこの黄ばんだ陰の空間に
まっすぐに立ってゐられますか。
雨も一層すきとほって強くなりましたし。
誰か子供が噛んでゐるのではありませんか。
向ふではあの男が咽喉をぶつぶつ鳴らします。
いま私は廊下へ出ようと思ひます。
どうか十ぺんだけ一緒に往来して下さい。
その白びかりの巨きなすあしで
あすこのつめたい板を
私と一緒にふんで下さい。
*** ***
彼が、暗い熱い醗酵した心境を、このような言葉にしたこと、詩、というかたちにすることの意味を考える。
自分自身にひとつの「かたち」を与えることの、自分自身への意味。
世界を、自分を、意味を、把握する、ということ。
表現する、ということは、その把握のしかたを、自ら選ぶ、ということなのだ。
自分自身と世界を、同時に、自分自身の力で、オリジナルに、…「創作」する行為。
苦しみから逃れるイメージを、作り上げる、実利的な効用も、ここにはある。
現実の風景から幻想領域へとシフトする詩作。「白びかりの巨きなすあし」を登場させる舞台へと。この救済のイメージは、アイコンとなって、意識を閉ざされた現実から滑り出させ、救いの方向の指標をかたちづくってくれる、ひとつのツールだ。
まるで、民俗学的な祝祭の儀礼的な神話のダンスのように。
トランス状態のダンサーたちが、破壊と創造の神話を「演技する」ことによって、ケガレた現実に、その原初の、イデアとしての異界からの力を呼び込むように。
この詩は、言葉は、イメージを追う、儀式となる。
祈りのスタイルと、とてもよく似ている。