酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

シモネタ

語弊があるとは思うが、一言で結論を言えば、シモネタを喜ぶ人間の心は、基本的に今ある人間社会の秩序基盤を肯定しているのだと思うんである。
 
暗く卑しく淫靡と禁忌を楽しむ、というような、他者をも貶める側面を強く持つ刺激への衝動としての下劣と、からりとしたシンプルな笑いとして茶化してみせ、偽善やキレイゴトを笑い飛ばす爆薬、毒としてのアンビヴァレンツを含め。
 
これは必ずしも「そのような人間」としてカテゴライズして言っているのではない。すべての人が要素として持っている、その要素の部分を指していっているのである。例えて言えば、それは一人の人間の中に共存する、聖性と俗性、男性性と女性性なんかと同じようなものだ。一つの概念の両端、両面。敢えて分析するから生まれる差異。
 
タブーを破る快感のためにタブーがある、という快感原則的思考と、秩序のためにタブーを設定し穢れとして隠蔽する、という、抑圧権力側の思考の双方を繋ぎ、体制補完の役割を果たすものとしてのトリックスター、あえての隙間、両義、メディアとして、シモネタは存在する。或いはそれは、タナトスとエロスのスパークする時点。
 
だが実際実はそれは、生命活動の根本に根ざし、圧倒的に、エロス、生命への賛歌に近いところにあるのだ。タナトスを凌駕するものとしての、止揚されたエロス。
 
シモネタの持つ双方向への力に意識して、それが発される場の権力構造のことを考えてみることの可能性を思う。己の中にその構造を探してみよう。そう、トリックスターは可能性だ。