酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

節操がない その2

「物語ること、生きること」上橋菜穂子(構成・文 瀧晴己)

「守り人」シリーズで知られる上橋菜穂子、デビュー作「精霊の木」からずっと追っかけて新刊が出るたびに飛びつくようにしてリアルタイムで読んでいた。

…稀有な物語メーカーである。(本屋大賞なんかに選ばれてしまい、ちょっとなあ、違うよなあ、もうちょっと違う賞をとってほしかったなあなんてじくじくと考えている。)本書は彼女が生い立ちを語ってゆくなかにその物語の源泉をさぐりだしてゆく、編集者聞き書きスタイルをとった一冊である。

ここでは、幼いころの記憶をたどり、おばあちゃん子だった彼女がその膝の上でしてもらっていたさまざまのおはなし、民話についてこんなふうに言及されている。

「おばあちゃんにとっては平家の落人の話も、化け猫の話も、家族の思い出も、なんの区別もないようでした。」

ナラトロジー的な観点からこの印象を検証してみるならば、「物語とは、物語られたとき、語りの階層のレヴェルを同一のものとするという仕掛けによって、現実とつくりごとという絶対的な差異であったはずの前提を無化する作用を持つ」、という現象を証明する証左として解釈される。

現実領域に入り込む異界幻想領域という構造…?

否、それは日常現実と認識されている世界に「嘘っこ」としての物語が混入してくるという構造とは実は異なる。

これは言語世界として「質的に」均質化する語りという行為によって、現実とされている世界が、実は現実を認識する行為によってはじめて成立しているのであり、それ自体物語の集積に過ぎないものであるという世界構造をもあらわにしてゆく物語行為の本質的な力なのである。

家族の思い出というものすごいリアルな肌触り、確かな現実感をもった「物語」から、平家の落人という現実にあったが歴史物語として解釈の要素を強めた虚構の混じりあう境界線としての「物語」、そしてあからさまに虚構物語のスタイルをとった化け猫の話までのグラデーションは、おばあちゃんの語りの中で言語のおりなす均質さの中に溶け込んでしまう。それらは同一地平のもとに等価なリアリティをもった言語世界として展開されるのだ。そしてそもそもが「ロゴス=言語」により構成される現実世界認識の風景はその根底から塗り替えられてしまう。

…節操がない。

合理化された現実という唯一無二の物語に対する絶対不可侵という尊重、信仰がない。プライオリティも重要度優先順位も格付けもまったくない。ヒエラルキーの喪失。そのような語りの持つ力の本質がここには露わにされている。

この語りの雑多ともいえるイマジネーションの自在さこそが、上橋菜穂子の作品世界に限りなく自由な多様性の豊饒を与えている。と同時にまた、それらは確かであたたかなおばあちゃんの膝と愛情によって語られたというベースに守られている。そのセーフティネットの上に、はじめて諧謔やワクワク、生命の躍動に満ちた世界の解釈が喜びとともに展開することができるのだ。

…ここで思い出されるのは、同じような現象認識のありかた、脳内の世界認識風景の無節操さを見事に表現しながら、真逆の解釈を加えた印象的な作品である。

筒井康隆家族八景」。

他人の心を読むことのできるテレパス、十八歳の七瀬がお手伝いさんとして八つの家庭の家族模様を、その心的風景をあばいてゆく八章に分かれた連作長編。

何しろ筒井康隆である。実に毒々しい。

で、その冒頭の章の舞台、尾形家の主婦、咲子の心の風景の描写である。

「そこにあったのは意識のがらくたであった。」
「風呂場のタイルが落ちかけていること、夕食は牛肉とピーマンの味噌炒め、(中略)茫漠とした意識野に些細な事物がごろごろところがっているだけだった。」

その家の息子に煙たがられ、財布から金銭を抜き取ったという濡れ衣を着せられた七瀬に対する咲子の認識は次のように描写される。

「そこにあるのはあいかわらず日常茶飯事のがらくたであり、『ナナちゃんの盗癖』という事柄も、七瀬には読めなかったが、きっとそのがらくたのひとつとしてころがっている筈だった。それら数多くのがらくたに、重要なものと、さして需要でないもの区別は、つけられていなかった。おどろくべきことに、それらはすべて同一平面上に散らばっていたのだ。」

この認識の構造は無節操というよりは無秩序であり、上橋菜穂子においては唯一絶対の牢獄としての現実世界認識からの多様性への解放、豊穣としての世界に開かれる力であったが、ここでは咲子の精神の深奥の真実を押し隠す精神的防壁、その仮死状態を示し、七瀬をぞっとさせる「荒涼たる心象風景」と称されるものとなっている。

アプリオリに秩序と真実ありき。

筒井康隆作品における無秩序無節操は常にオモテ側の正しい世界秩序を攻撃する世界のウラ側の闇と恐怖の力であり害毒であり荒廃である。

秩序を侵すもの、無秩序=荒廃、破滅、崩壊、虚無、という構図。世界は多様へと開かれない。その外側は「存在しない」。そのような可能性、概念を持つことができない。認識主体自体が唯一の秩序に隷属したものであるからだ。

偽善と偽悪が表裏の関係にあるように、男性中心社会における男性原理の中での女権確立運動、リベラル・フェミニズムのように、それはただの裏返しだ。反転しても構造は同じ。唯一絶対の正しさという牢獄と支配のための世界の正当性による権力構造の中心点、その根底、パラダイムはいささかも揺らぐことはない。価値体系は変換されない。

世界認識の体系を根底から覆す物語本来の力を持つ上橋作品は認識システムを根幹から読みかえるものである。偽善と偽悪の平面的な地平を乗り越えた第三の領域への止揚、システムそのものの革命を求めるラディカル・フェミニズム的な立場に立つ。

既存システムに固執し己の一部として食い込んでいるその認識スタイルの枠組みから逃れることのない筒井作品のシステムへの拘泥、その愛憎。そして上橋作品における、システムのアルケーの地点、その外側を見据え、その破壊と再構築を可能とする未知への解放を志向する冷徹な合理性。

自己の枠組みに拘泥することとそこから解放されることへの姿勢の違いとそれはぴったりと重なる。同義である。

…軽々しく定義づけるべきじゃないけど、やっぱり男性原理と女性原理の違いっていうの、いちいち感じるんだよなあ、こういうの。