酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

憧れの力

音楽でも文学でも絵画でも、その背景を知ってることと知らないこと、という違いについていつもジミジミと考えている。

味わい方が、感じ方が、見える意味すら変わってくる。
だがしかしそれは、けれどもそれが「知っていること」が必ずしもより深く高尚で真実に近いというわけではないのだ、ということについて、その素敵さについて言いたい、ということなのだ。

テクストと読者の関係性のあいだに生まれる、ナラトロジーでの「読書の現場」に生ずる意味の間には、どのようなものであってもそこに尊卑はない。たとえどんなにそれが人間としての作者の意図から離れた読者の勘違いのような解釈から生まれるものだとしても。テクストは、既に人間としての作者の具体からは分離した抽象としてのメディアであるから。



例えば、海外に行ったことのない人が、異国的なるもの、まだ見ぬ遥かな国を夢見て憧れ想像創造するもの、そして実際に行って体験した人が作り出したもの。一体どちらの創作がより価値があるか。

知ったとき失われるもの、得られるもの。ビフォーアフター。そこにはただ「違い」しかない。

得られるものは、客観的な知識の厚みによるイメージの広がりによる確かな深み。失われるのは、未知への憧れによって跋扈する妄想、知りたい、という、焦がれるような熱い思い。より個的な美しさをまとったさまざまのファンタジー。(ファンタジーという語に関しては、語源に寄り添ったままの、語義通りの解釈を私は愛する。いわゆるハリーポッターとかRPGゲームの定型化した商業的通俗的物語のジャンルとしてのファンタジーではなく、想像力の光の湧き出だす精神の輝きの源泉のイメージの語感。)(ギリシア語、phantazein<現れる>、phantasia<出現、概念、イメージ>)

後戻りはできない。知った時の目からウロコの明るさの瞬間のロゴスの世界の感動、面白さは、進歩と前進の美学の論理地平上にある。懐古される美しい江戸時代の暮らしにも縄文時代の知恵にも戻れない。知ってしまったコンビニ文化を拒否することは難しい。戻ることはできない。

…だけど、螺旋を描くことはできる。双方は等価な価値を持つ。互いに憧れあう、相容れないものであるがゆえに、その憧れは「夢」を生む、憧れという幻想、それは想像力。想像力は創造力を生み出す源泉であり、それは世界を次の段階へと動かしてゆく生命力にみちた「不可知の力」ともいえるのではないか。すなわち、アウフヘーベン



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…性愛の話をしているんである。

肉欲か精神愛か。形而上か形而下か。下劣か高尚か。その正反対の両極が感情と感覚、意味の激烈さという共通項でのみ結び付けられている。結びつけられたとき、それは論理の世界を壊してしまう。矛盾を繋いでしまう。二項対立で成り立つ意味の構造を壊してしまう。

男性社会が、理想の女性像を、人間としての相対性をもった他者ではなく、人間としてのその本体を無視した己にとっての対象、(「他者」ではない)聖母と娼婦の両極の抽象、原理へと還元してしまったことにその構造は重なる。

性愛の両極について漱石の「こころ」の「先生」の言葉になかにこんな表現がある。

「私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかも知れませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れる事のできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。」

いや実に漱石はしみじみおもしろい。

愛の両端という構造の概念について先生は明快に語る。
それは、二項対立というものが相容れない対立概念としてのかたちをとっていながら、実は切り離されたものなのではなく、構造からいえばもともとはまさしくひとつのものの両端であることに気づかせてくれる。例えば、赤ん坊から子供へ、思春期へ、大人へ、老人へ、という流れのように、両端の要素をきりとって取り上げてみれば明確な対立構造をとることのできるかたちをとったものであっても、実はその境界線は非常にあいまいできれいな線引きはできない、全体としてひとつのものなのだ。

とすれば、身体に根差した性欲としてのエロスの愛と精神にやどる崇高さとしてのアガペの愛もまた連続面をもった一続きの論理地平の上において考えることができる。全体性として、ひとつのものとして。聖母と娼婦の間の落差と差異を戯れる安易な興奮の卑しさではなく、(いや、それもまた大切な要素ではあるが、それだけではなく。)支配だけでなく献身だけでなく。支配と献身の両極の二項対立の間の連続面を見出す、そのアウフヘーベンされた全体性の次元を見出す。粘り強くそのミッシングリンク、その連続面を辿ることを考える。

また、宮澤賢治は禁欲の人として有名だが、性欲に関してはこのような考察を顕わしている。

「ちいさなわれを劃ることのできない/この不可思議な大きな心象宙宇のなかで/もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といっしょに/至上福祉にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたったもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいっしょに行かうとする/この変態を恋愛といふ/そしてどこまで進んでもその方向では/決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を/むりにもごまかし求め得やうとする/この変態を性慾といふ 」(「春と修羅」より「小岩井農場パート9」)

ものすごいオリジナリティである。いやもうこれは衝撃的なレヴェルのオリジナリティ。
自我の枠からの開放のことを言ってるんである。そして宗教と恋愛を結びつけているところが漱石と同じ発想の土台にある。

彼は決して澱みの部分を穢れの部分を己の中に認めることができなかった。その無辜への希求、純粋さはヒステリックなレヴェルではあるが、しかしすべての現象に植え付けられた物語の皮をはぎとった強烈な「本質」への追及の原動力となっている。


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話は冒頭の「不可知による憧れの力」、というところに戻る。

思春期の恋愛、初恋ほどに激しく美しくピュアな、恋愛の上澄み、澄んだうつくしい幸福を体現したものがあるだろうか?
まさしくそれは恋に恋する現象、他者への幻想という恋愛の本質をつらまえている。

これからの未来を、まだ見ぬ世界を未知なるものとして、憧れと不思議と奇跡と美しさのファンタジーにあふれた無限の広さと可能性として感じ取る、赤ん坊のセンス・オブ・ワンダー。その恋愛ヴァージョンである。

知らないからだ。裏切り快楽欲望利己心変わりすれ違い、汚猥、侮蔑、暴力。よどみ濁りどろどろと現実にまみれたその実態、上澄みだけでない底に淀んだ澱の部分をも含めた全体像を。
だがその未知であるがゆえの高みと美しさへの憧れの力がイデアを創り出す。そしてそれがあるからこそ澱みの部分をもまたそのままのかたちで浄化された高みに通ずることができる。

例えば絶対の愛と希望に包まれた子供時代さえもっていれば、一生その風景は、その個の芯を育んだ風景は、精神の底に常にひそめられたなんぴとにも侵されることのできない安寧として、あらゆる現実の海面上にむごく激しく吹き荒れる嵐に対しても、その人の存在を根っこのところで支えてくれる。人生の最初のパートが、その人の一生を、幸福を土台の本質にしたものとして支えてくれるのだ。


で、ビフォーアフターの、アフター。

性欲。獣じみた暴力性。卑しめてやりたいという不思議な欲望の快楽。支配。
それをすべて味わい尽くした果てにあるもの。

ビフォーの淡い憧れの青臭く無知な薄ペラさを否定し、これが現実の大人の世界よ、知らぬはカタワよ、こっちが現実よ、厚み深みをすべて網羅したキレイゴトでない真実よ、という偽悪ではなく。ビフォーとアフターの二項対立から、実はそのどちらもが閉ざされた現実を別次元の論理へ開放するキイであるという共通項に気づくことによる、深みを備えその澱みをもまるごと受け入れ透明に浄化することのできる異なった次元へ。

穏やかな日常の日々の中に通奏低音として埋め込まれる、その別次元の確かな存在感。

どちらの要素をもヒステリックに否定する必要のない高みに視点を置いた日常はありうる。

失った憧れは追憶の中にイデアとして燦然と輝き続けることができる。暗く閉ざされた激しい情動の存在もすべて開放された次元で許されていることができる。


ということで、とりあえずまあね。

今は、己がどこの地点にいるかを把握しさえすればビフォーの地点にあろうとアフターの時点にあろうとそれはそれですべてヨシ。って思うんであるよ。