酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

教授への手紙

昔書いた手紙が出てきた。

手紙じゃなくてメールだけど、プリントしておいてたんだな。書き散らしたいろんなものの中から出てきた。
本当に出したメールなんだけど、それをもとにあちこちちょっと編集して載せてみる。

しかしこんなみょうちきりんなメール受け取って、ものすごく誠実な真摯なお返事くれた恩師の存在には感謝。
(きっと内心困っちゃってたんだろなア。) 

 ***

お元気ですか。

ご無沙汰しております。三期生のmomongです。
先生はお変わりありませんでしょうか。白髪は増えてしまっていないでしょうか。

大学では、相変わらず、世代を変えながら、いろんな若い人たちが流れていっているのでしょうか。

最近、十年も昔に読んだ村上春樹の小説をいくつも読み返しました。そうしたら、十年も昔のことを、たくさん思い出しました。

十年です!

自分が十年という時間のスパンを語る日が来るなんて十歳の頃は思いもよらなかった、永遠の代名詞のような言葉であったのに。

先生の白髪も増えて、大層えらい教授になってしまっていて、あのころの友達もみなそれぞれさまざまな人生の物語を描いております。(そうそう、Nちゃんも、今年じゅうに、いよいよお母さんになる予定だそうですよ。)ああ、本当に。本の中のことでなく、自分の現実の人生の重みで、十年も生きてしまったのか、と、不思議な感慨を覚えます。

けれどどうも、それなのに、その中で私だけが相変わらず大人になりきれず、いつまでも取り残されているような気がしてなりません。


ところで私は、今年、長らく続けてきた意固地な完全ベジーを廃止し、魚を食べることに決めました。さかなは、烏賊、蛸、貝類を含みます。私は、猛然とそれら魚介類に立ち向かい、そして、襲い来るじんましんや口内炎と闘いつづけ、徐々に打ち勝ちつつあります。

…ということで、最近は俄然魚への興味が深くなりました。何しろ名前が楽しいです。「なめたがれい」やら「ほうぼう」やら「うまづらはぎ」やら、何とも言えず素敵な豊かな言語センスを感じさせるものが多いです。

さかなの肉は、私の血となり肉となりました。本当に、面白いようにきちんと手足に肉がついて、太ってきたのです。一時期、ひどくやせて身体中が痛み、病院では心身症の一種だろうと言われましたが、体調に薄日が射してきたような気がしています。

宮澤賢治が、生き物の肉を食べる罪悪感におののき、苦しみ、自己犠牲の理屈へと流れていった、そのピュアな傲慢さと哀しさに、十年前の私はすっかりハマりました。けれど今、さかなを食べるとき、むしろ私は金子みすずの詩の一節、「ほんにおさかなかわいそう」この言葉を思います。

なんにも悪いこともしないのに、人の世話になって育ったわけでもないのに、捕らわれて殺されて自分に食われる海のさかなへのあわれみ、その不条理の哀しみを、しゃあしゃあとお魚を食べながら素直にうたう、そんな、あきらめに似た不思議な感覚に魅かれます。ナイーブでいて、しなやかにしたたかで、けれど、どうしても哀しく…

賢治の、頭でっかちの傲慢さとぎこちなさの、純粋な論理を求める倫理観。罪から逃れていたい、自分は無辜でありたいというその哀しい傲慢。そして、原罪を背負った自分を決して忘れたり正当化したりすることなく、そのままを認めてゆく、肉体的な、直感的な諦念の知性としての金子みすず。それは、何となく「男性原理」と「女性原理」の違いであるような気もします。

何だか、おいしくおさかなを食べる、ということは、たくさんの意味があるような気がするのです。

魚屋で魚を眺めながら、或いは、泳ぐ魚のポスターを眺めながら(中央線に乗っていると、四ツ谷から御茶ノ水の間の印刷会社のビルに、巨大な宣伝ポスターが飾ってあるのです。金色の大きな魚たちが、深い森の中を泳いでゆく、素敵な写真です。)ぼんやり、食うことのさまざまを考えるのは、ちょっと楽しいです。

海の魚を摂取するのは、健康のためにとてもいいです。貝類も酒飲みには特にとってもいいから、どうぞ先生もせっせと魚食文化を謳歌して、今後も元気にご活躍してくださいますように。

ではでは。