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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

賑やかで、寂しい。

「遊びをせむとや生まれけむ」或いは「ホモ・ルーデンス

  ***

…遠い昔、高2か高3。初めて出会った場所は近所の裏通りの小さな英語の塾であった。
大学生アルバイト講師の彼はよくこう言っていた。


「楽しくなければ塾じゃない。」


…本当に毎回わくわくするような楽しい授業であった。
今でもあの授業を受けていた日々に戻りたいと思う。


週に一度、私はいつでもこの時間を非常に楽しみにしていて、学校では予習復習ナンダソレな居眠りばかりのぐうたらだったのに、彼の課す結構大変だった宿題(記憶)は、その授業を楽しむだけのために意固地になってこなしていた。


(「この英文一番に訳したヤツには500円やるぞ。」につられてフルスロットルミラクルハイパワーで訳しあげ、ハイッハイッと手を挙げて500円もらったのは私です。)


さまざまな学校から週に一度集まってくるそのときだけの時空を共有する仲間。
刺激とスリルと諧謔、知識欲、アドレッセンスの痛みと受験の不安、不安と希望にみちみちたまだ見ぬ未来の夢が渦巻く。不思議に親密な時空間であった。


…そして彼はおそらくその後の人生においてもこの「楽しくなければ人生じゃない」というポリシーを貫いてきたんだろう。



それから数十年。時は流れ現在。

思いがけずインターネット上で再会を果たした。
ブログのURLを教えてもらって閲覧。


(ちょっと驚愕。)
(淡い思い出や印象があちこちねつ造されつつよみがえる。)
(強化されたりひどく納得したり意外な側面を見せられたり違った光に照らされて解釈しなおされたり。)


彼が横溢する過剰な才能思想感情を日々さまざまに書き散らすそのブログを彼の友人は次のように評した。


「この文章は「卑猥」と「悲哀」と「滑稽」を計算高く合理的に期待させる。読者を弄り、失望させ、ときにバカ呼ばわりして、虜にするというこの稀代の鬼才は…」


実に言い得て妙である。


痛ましいほどの孤独、寂寥、悲哀、絶望を表白したかと思えばお下劣なエログロ下ネタ満載の痙攣的な笑いを含んだ偽悪露悪スラップスティック、或いはエスプリの利いた諧謔。世間一般良識派を敵に回して激しく口汚い罵倒、呪詛を投げつけてみせたかと思うと切ないほどの郷愁や優しさ、友人への尊敬や讃歌があふれる。


くるくると身を翻す七変化、その文体は読者を幻惑する。どこまで本当でどこから虚構なのか。何一つ信頼できないけれどきっとすべては真実でもある。振り回され愚弄される。自身を貶め笑いものにしてみせながら読者をあざ笑う滑稽で冷徹で残酷な色彩変幻のピエロ。


そして、そうだ。
たとえ「これは真実です。」「正直に言います。」の舌の根の乾かぬうちに「すべては虚構です。」としゃあしゃあと書き連ねて憚らぬ食えない作者の言葉であっても、おそらくここに書かれたことはすべて真実だ。私はそう思い至った。だからおもしろいのだ、と。


虚言の宣言、反転する論理。…そして虚言であることも含めそれらすべてがまるごと真実。
全ての矛盾は同時に成り立ち得る。


これはどういうことか。


…批評はしばしば批評する対象を借りて評者自身の姿を語る。
彼は己の愛読書、「聖少女」(倉橋由美子)を次のように評してみせる。


「倉橋は文章家としていわゆる「手練れ」であり、あざとい。読者を操作することを本能的に好み、」


…いやまさにこれでしょう。倉橋ではなくあなたさまが。


「作品世界においては己の欲望-それは倉橋が一生抱えたテーマであり、倉橋の作品創造に関する始源的な動機は、常に性的な渇望であろう-に従い、言葉は悪いがその性欲をオナニーで解消しようと書き続けたわがままで鼻持ちならない芸術家である。(中略)現実世界を素描し、その荒涼と、そこに反面で存在する「幻想」だけを描ければそれで十分で、(中略)「面白ければそれでいい」と考え、読者を操っていた、というか、はっきり言えば読者を軽蔑し、読者とはこんなものだと割り切り、売文を書いていた作家だと思う。」


…私は感服した。ことんと腑に落ちる。


これはご自分の文章を分析したに違いない。
ご自分の胸に手を当ててしまったに違いない。


「だが私は、こういう作家に対して否定的ではない。「面白い」ことは、重要である。」


ウンウン、そうですよねい、いつもそう仰ってますもんねい。


…だから気になるのはここで「面白い」ってどういうこと?ってことなんである。


彼のいう面白さ、その笑いの多くは、優しさやヒューマニズム、あたたかな陽だまりの愛や満ち足りた幸福、充足の微笑みとは対極にある。
神経を逆撫でされて痙攣するような発作的なスラップスティック、ブラック。すべてを揶揄し軽蔑し笑い飛ばす、そのひきつれたような激しいパワーの発現は、いうなれば泥酔と退廃と狂乱、蕩尽、酒と豊穣の神デュオニソスの徒の祝祭。


そのブラックな笑いは世界の闇と荒廃と絶望の深さをそのまま振動させひきつった笑いの発作に変換した、己と世界をまるごとあざ笑う傷だらけの痛ましいハリネズミの怪物なのではないだろうか。


あまりにも純粋で利己的で脆く臆病で卑怯で甘ったれで泣き虫で柔らかな傷つきやすい幼児のままの魂をハリネズミの鎧で覆い、誰彼構わず攻撃する幼稚で狡猾なかたちの知、クレバーな切れ味鋭い刃物のような才能。うっかり引きずりこまれたら傷だらけの底なし沼に堕ちてしまう類の怠惰な絶望。


賑やかなその祝祭に響く酔っ払いどもの笑い声は、放埓と快楽と暴虐の限りを尽くした末、その何もかもを理解し包み込み許し救済する母の絶対の愛を求める幼児の激しい泣き声を響かせている。こんなのやだよう、こんなごまかしや欺瞞だらけの世界はいやだよう。


賑やかで、寂しい、祝祭。


正義を気取る快感に酔う輩のそのあらゆる欺瞞をごまかしを暴き揶揄しヒイヒイと笑う、返す刀で己の浅ましさもヒイヒイとあざ笑ってみせるトリックスター、ピエロ・ル・フー。


…そして全てを救済する愛を性的な快楽の先に求め、「対幻想」、異性に求め、その性的な快楽の問答無用の絶対性を、あらゆる制度の欺瞞をぶっとばすカオスからの力の噴出のイメージに重ね、それを「愛」のさまざまの定義、概念の幻想の中に求め、惑う。


エゴの牢獄からの救済。愛と呼ばれる謎の概念。
それは己の献身であるべきなのか、だけど結局は対象を征服する、支配欲に流れてしまうものなのか?


その惑いはくるくると反転する虚言となって現れる。
何一つ嘘はない。だけど嘘だらけ。


…彼のブログの中に、ふと感じた電話の向こうの女性の持つ華やかな世界への憧れを、「この女を自分に夢中にさせてみたい」という衝動として吐露した文章があったと思う。


素敵なもの、ホシイ。手に入れたい。
それが、「オレに夢中にさせてみせる」という発想に流れるのが不思議なのだ。ものすごいその自信もさりながら、支配したい、に流れる不思議。「憧れ」は、己を相手の輝きの守護者として投げ渡す献身であってもいいはずなのに、それを別のルートから支配することによって手に入れたいという発想は、対象の輝きを蹂躙し穢し壊し、結局は握りしめた瞬間失ってしまう結末しか持たない。

だけど、幼児はきっと衝動的に思うのだ。
鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス

あとは己の才覚、テクニックを駆使するゲームの楽しさ。
こう言ってみたらどうなる?どう受け取られる?相手はどう感じる?どう操れる?

使う道具は諸刃の剣、相手を、世界を操り支配しようとした言葉は逆に発した己をも支配する。発した言葉が己を縛る真実になってしまう。
当たり前だ。しがみついた概念が、感じた真実。それ以外、己には何もない。ほかには何もない、カラッポ。


カラッポ。


それだ。己のカラッポへの自覚。無意識の。
その恐怖という真実を私は受け取る。

  ***

深夜ひとりになったときの孤独や絶望のメッセージを受け取ることがある。
社会的にも立派で尊敬され何不自由ない立場におり人間関係に問題を抱えているわけでもなく同性異性の友人にも才能にも恵まれた方が。


もうダメかもしれないと彼は言う。自死もまた選択肢であると彼は言う。

どうしてですかと私は問う。

その答えである。


「馬鹿ばっかりだ。」


…は?


馬鹿ばっかりだと死にたくなる?


…何となくわかるような気がしたので、すごくまじめに考えた。

馬鹿ばっかり→面白くない、楽しくない、つまらない→生きていたって仕方がない。

ああそうか、徹底した「楽しくなければ人生じゃない思想」を正しく表白しているのであった。



そうか、楽しくなければ生きている価値はないのだ。

或いはもうひとつ。

馬鹿ばっかり→己の心を正しく理解し救済してくれるような賢い人はいない→孤独

正しくおこちゃまヒスモードである。



あそびをせむとや生まれけむ。
純正なるホモ・ルーデンス

ほんとうに人間はおもしろくないと死んでしまうということもあるのかもしれない。
正しく遊べなくなったらおしまいなのだ。


  ***


…でね、だから、もうひとつ。
ひきつれた痙攣の笑い、それはそれだけじゃないとも思うんだな。

正しく遊ぶ。

呵呵大笑。

陽だまりのほほえみ、つつましい充足のほほえみ、世界の美しさへの驚異と讃歌、透き通った喜びにも繋がる純粋な喜び、可笑しさ、楽しさ、生命が生命であることを自覚したときの、世界の始まりのパワーの源があふれるところ。

汚らしさを恐れず纏う露悪と偽悪から生まれる痙攣としての笑い、同じその笑いの深奥に、とてもピュアな、無垢な笑いのモトが潜んでいる。その小さな水源、その遠い響きを私は感じるのだ。

今それを言葉にするのは難しい。

それは例えば賢治に対して感じる違和感、ヒステリックで奇妙な自己犠牲や禁欲、菜食主義、絶対の正義の願いへのひきつれ、歪みの向こう側にある、純粋に突き抜けた「世界存在の奇跡」、ひたすら楽しい、という感覚への、そのセンス・オブ・ワンダーのピュアな笑いの要素とつながってくる。

そのブラックな笑いのゆがみ、ひきつれの枷は何らかの知性によって解き放たれる可能性を持っているのではないか、その途端、穢されたその魂がたちまち浄化されてたとえようもなく美しい喜びの、赤子の最初の笑いの響きにみたされるような、そんな真実への予感。


…といったところでこの先はまたジミジミと一生かけて考えていくべき課題。

(だけどなんだろうな、切れ味の鋭さの快さ、きちんとごまかしや落ち度を見抜かれ切り裂かれる痛みと清々しさのアマルガム、フグの毒の紙一重みたいなとこにあるものすごい危険な魅惑、陶酔してしまう魅惑っていうのはな、あるんだな、なんだろうな。)



今夜はちょっと思い出した愛しのヤナちゃんの歌。
おやすみなさいサンタマリア。

♪生まれついての虚言症、被告人席で大欠伸♪昨日しゃべったことなんておぼえてるわけがねぇだろう♪月の輝くベランダでハミングしながら歌うのは、すべてかなわぬ恋のうた♪

柳原陽一郎「ねこなのだぁ」)