知らなーいーまーちをたーびーしーてーみいたい〜♪
…で、道に迷うのが好きである。
道に迷う話を読むのが好きである。
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道に迷うということは自分のいる場所が地図的に鳥瞰できないということである。
日常において人はその己の日常世界の一日の、ファミリアーにしてうんざりするように見慣れた道すじを迷うことなくルーティンにして辿っている。だが同じく鳥瞰はされていない。そこに閉ざされている限り。
旅をする、本を読む、観劇。すべてブレヒトのいうように、そこからの異化のためだとすれば、それは一種確固たる日常から離脱し不定形な未知のフィールドで道に迷うことであり、さらに言えばそれはまた最終的な日常への回帰という反動とセットである。旅は行ってよし帰ってよし。
…とすれば。
それは、その意識の振り子運動の構造は、それ自体が「超ー日常」としてのイデアへの回帰運動の模倣としてのモデルとして成り立つ。
日常から切り離された頼りなさと寂しさと恐怖感、そしてしかしその反面である限りない自由、解放の喜びのアンビヴァレントな同時性は、日常に回帰した瞬間にとざされ、しかしそのときに完成する。またそれは観劇を終え読書を終え、己の閉ざされたはずの日常を外側から鳥瞰し客観視する読者、観客としての視座を得たそのひとときの感覚である。これをなんといえばよいのだろうか。
夢から覚めたばかりで魂が完全に日常の身体におさまりきっていない、周囲の風景がゲシュタルト崩壊を起こしたままの一瞬の感覚を。
意識の成す呪術的なダンスのなしたその効果を。
どちらからも放たれた頼りないメディアの場、崩壊されたその隙間に一瞬垣間見られる、何もかもを鳥瞰することのできる場所を擦過する。
道に迷った詩をひとつあげてみよう。
宮澤賢治「春と修羅」から、ひとつ。
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カーバイト倉庫
まちなみのなつかしい灯とおもつて
いそいでわたくしは雪と蛇紋岩(サーペンタイン)との
山峡(さんけふ)をでてきましたのに
これはカーバイト倉庫の軒
すきとほつてつめたい電燈です
(薄明(はくめい)どきのみぞれにぬれたのだから
巻烟草に一本火をつけるがいい)
これらなつかしさの擦過は
寒さからだけ来たのでなく
またさびしいためからだけでもない
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懐かしい日常のまちの内側へとあらあらしい自然界、外界から戻ってこようとして、その中途で迷っている。
そのときの「なつかしさの擦過」の感覚のことである。
寒くさびしいからまちあかりがなつかしい。
…それ「だけ」ではない。
限りない寒さとさびしさの中で己の中に小さな炎をともし、完全な雪と蛇紋岩の異郷でもなく、まちのなかでもなく。
どこにも属することができず、その帰り道の中途で迷っているときだけ感ずることのできるもの。
その一瞬の「なつかしさ」。そのなまめかしさはどこからくるのか。
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…振り子というべきではない。日常への回帰、というのでもない。
らせんを描く。同じ場所に回帰したものであるかのように見えて実はそれはすでに同じステージにあるものなのではない。
サザエさんにイデアとしての理想社会を投影するがごとく、現実の日常生活の魂の故郷としての絶対的日常への祈り、切望を見出す手だてとしてもそれはとらえられるのではないか、というようなことを考えている。
ケの世界にハレの倍音を響かせる、という祝祭、その呪術のことなのだ。
シュールレアリズムの手法と、構造としてはこれはその同型であるといってよい。
シュールレアリズムとその潮流のなそうとしたことは、おそらく作られた現実物語の外枠への突破口への刺激を示しているに過ぎない。あくまでもメソッドである。奇異であることが主眼であるといってよい。それは、武器、爆弾に過ぎないのだから。
目的は、意識の呪術的ダンス。そのダンスによって己をかたちづくり守りまた閉ざしたものの構造を外枠から眺める視座を得る。
日常もまたひとつの演劇にすぎないのだと。
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…で、演劇である。
多分、手塚治虫やシェイクスピアの作品には、個の内部へと沈潜するような、いわゆる近代文学的な文学性というのは全く欠如している。この、寧ろプリミティヴなドラマの力、物語の力、魅力は一体なんなのか。社会性。いわば通俗としての人間の生命の力の横溢へのオマージュ。
そうか、ドラマツルギー。
演劇用語として、且つ、社会学的用語として。
人の行動が、時間・場所およびオーディエンスに依存するものであるということ。
ここで、問題は個の定義を問いなおすところにある。アイデンティティは他者と社会との関わり、自己意識、己を鑑賞する他者の目、そのオーディエンスを内在させる意識によって絶えず再構成され続ける、現在しつづける。人は社会的な役割を与えられそのキャスティングを甘んじて受け入れながら日常を演じ続けて生きている。日常そのものが一つの演劇である。ドラマツルギー。
極私的、個的な内部への沈潜としての文学性と、徹底した社会性(或いは原初、通俗としての物語)は、どちらのアプローチをたどっても、究極として、それはミクロとマクロの反転のように互いに開かれて動的な物語のアルケーへと開かれる。それは反転への道筋である。徹底した個別性が普遍へとつながる。具体が抽象の母胎であるようなかたちで。
ああ、どっかいきたい旅の空。
そして日常へと舞い降りる翼をもつことなく、果てしなく迷い続け、どこからも解き放たれたその永遠のメディアの中にとどまっていてもいい。