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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

センス・オブ・ワンダー

優れた数学者は恐らくピュアな論理を詩的官能の喜びとして受けとっており、優れた小説家は人間の織りなす物語構造を非人情の視座をもって眺めている。


アクセスは違っても高みに行きつけばとても近い。最新物理学と最古の仏教思想の世界認識スタイルの類似のように。


そこにあるのはただ純粋な世界への驚異と喜び。
センス・オブ・ワンダー

イデア、とはこの場所のことを指す。


本来透き通った純粋な喜びであるはずの世界存在が純粋でないところとはどこのことか。

その高みに向かうアクセスの道程、行き着くためのその手続きを辿っているその道程こそが、0と1の間に限りなく細分化する無限の「有」である。

とすれば、これこそが、そのイデアの影である有象無象がミメーシスとよばれるべきものなのではないか。
要するに、世界すべてである。

カオスから生まれた差異が、差異によって生まれ同時に封じられたカオスが、ふたたびであう、永遠に戻ることのできない最終目的地の故郷である未来という場所のこと。決して存在しない真理、イデア、絵に描いたモチ。

現実世界である日常のなかでいかにしてイマココをそのミメーシス(形而上のイデアを観念の中に倍音として響かせ続ける形而下)たらしめるか。


センス・オブ・ワンダーへの方法論。


例えば、賢治の言う「農民芸術概論」のテーマはそこにあるといってもよい。
(全文が青空文庫に入っております。こちら


***


「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」

とたからかにアジるこの詩歌の第9節、「農民芸術の綜合」にこのような一節がある。


「詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」


***


賢治のいう四次元。
この時空、この「場所」のことを少し考えてみよう。


泉鏡花の小説で、卑しいものとして踏みにじられ蔑まれしゃぶりつくされ、果てはうつされた業病に苦しみ、醜くただれ腐れ、あらゆる心身の地獄を味わった汚猥の末に救いの欠片もなく死んでいった女性が、この世の理不尽への真っ黒に深い激しいうらみから反転した美しい仏になる瞬間の描写があった。この奇妙な感触を時折思い出す。


なんだっけなあ。


般若の面が菩薩に変わる瞬間のような印象の一節であった。


世のすべてを憎み呪い罵り叫んだ悪鬼のような末期から反転した場所で、生きてるものがなにもかもかわゆい、自分を害したものすべてがかわゆい、とこの世とあの世のはざまにいる彼女は心から語る。


この世を離れたうつくしい表情でほほ笑む、けれどもそれは決して俗から完全に解脱した、乖離したものではない、不思議なその「かわゆい」という言葉、語感。


かわゆい、愛しい。


哀れな卑しい俗や汚さや、残酷さすべてを含めて、それらすべてが小さく哀れな生命の愛らしい営みとしてとらえられる認識の場所。


そう、場所のことなのだ。思考の存する場所、あるいは「場所の思考」。
視座によって物事の仮象はくるくると違ったものに変化してゆく。


センス・オブ・ワンダー

めくるめくきらめき、儚く頼りなくも美しい、存在そのものが新鮮な奇跡であるという、そのありかた、かわゆい、愛しい、反転し続ける世界像をとらえる。


そして、その向こう側にあるもの、すべてを統括する別次元の秩序の存在を感ずる。


その場所、大いなる秩序、「四次元」へと投影され、その秩序をなぞるという行為によってそれを創造し呼び込む呪術の場「人生劇場(農民芸術概論)」で、オーディエンスと演者へと分裂しながら崩壊し解放されるアイデンティティ


その陶酔のために、日常を踊る。
ダンス・ダンス・ダンス」(村上春樹)。


演じ続け踊り続けるその陶酔の向こう側に、虚無とカオス。
すべてのマトリックスであるその真理がある。