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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

お腦が弱い・その2

やはり私はお腦が弱いらしい。致命的になにかが欠けているらしい。

(参考、「お腦が弱い」)

脳内の情報網をトータルに把握し再創造するイメージ能力、時空認識能力に著しく欠けている。

だからたとえば難解な本なんかで複雑怪奇に深淵な論理体系の、その難解な文章を読んだりしても、とてもシンプルな自分の脳細胞情報に合わせてとてもシンプルに解釈する。

無理してもダメである。所詮己の矮小な能力に合わせた理解の範疇でしか理解とは成り立たないものなのだ。

巨大な無限の世界の情報網、脳内情報網を照らす主体としての意識の光の範囲が大変に狭いのだ。近視眼にして万葉人(目の前のひらたい風景しか見えなかったという。)。トータルで立体的な鳥瞰図、情報網を見はるかす視力、知力がない。複眼もない。ああお腦が弱い。

いちどにひとつ、小さな懐中電灯の貧しい明かりが照らし出すシンプルな論理構造しか見えない。

だがそしてシンプルな論理というのは大抵正しい。
(そして見えない、わからないものすべての倍音を響かせる。)


…ということで、momongは大変に素直で信じやすい。誰が何を言っても、そのシンプルなところを汲み取って、大抵は一旦すべて受け入れてしまう。脳内に受け入れられた時点で相手の考えが己の考えになってしまうのだ。

自分がないからである。

だから、うっかり占いなんかを見たらすぐ信じてしまう。星座占い血液型占い、うっかり診断されるとおもしろいように信じてしまう。これは違うな、と思っても、「イヤ実は裏側に隠された本当の自分とは…」ということで信じてしまう。すごくいい運勢のはずだったのにかなしいことばかりの日だったら、「イヤもっと悪いことでもおこりえたのに、これですんだのだ。そしてこんないいこともあったのだとも考えられる。」と解釈して信じてしまう。(イヤもちろん、どこかでそりゃ違うなってちゃんと思ってはいるんだけど、信じてしまおうとする思考の流れの衝動を感ずるのだ。)

どれもこれも、自分がないからである。


花嫁衣裳の白のように。自分の色をもたないから、周りのすべてに染められてしまう。

白どころではない。暗黒に透明なのだ。私の思想はアメーバのように透き通った不定形な思想なのだ。たやすく染められたやすく変形させられる。

自分探しとか、ありのままの〜、とか、本当の自分、とか探せる人がうらやましい。どんなに探しても何にもない。私はもともとカラッポである。

だから私の考え、思想は、周囲の風景を映すだけだ。


 ***


…主観としてそう自覚しているだけかと希望的に考えていたが、やはりどうやら人から見てもそうだったらしい。どこから見ても立派な不具者。

指摘されたのだ。
その私への批評、その物語の論理も、私はやはりまるごと飲み込んでしまった。知ってるつもりだったけど自覚だってしていたつもりだけどあらためて言われると結構ショックを受けてしまう。

心の弱い人間なのだ。

それが目立たぬよう気取られぬよう、誰に傷つけられることもなく誰を傷つけることもないように、世界の片隅の薄暗がりでひっそりと呼吸をして生きてきたのに。強いものに出会うと飲み込まれてしまうから用心してきたのに。

人生のさまざまな場面で、己の存在感のひっそりさを「キノコ」「妖怪」「座敷童」等の評価としてきちんといただいてきた自負もあるのに。


…だがつらつら思い起こすに、実はそのことは指摘され続けてきたんであった。

バイトしてた時のボスからは「どうもあなたはどこかにねじが一本、それさえあれば、って感じだねえ。」
ゼミの先生からは「キミは演技してるんだよ。」

(え、この世に演技してない人間が存在するのかよ、とは思ったのですが)演技以外の仮面以外の下はカラッポであることを自覚しているという欠損の秘密。


 ***

慶一さんの「あたしの故郷は流木なの」という歌を思う。カントリー調のリズムとノリのいいメロディが素敵な歌だ。

「あたしの故郷(ふるさと)はあの流木なの。魂なんてない、あの流木なの。目を凝らしてみればわかるでしょ。ふやけてながれてくそのわけが。
最初に暮らしたのはかなしみ。二番目は激しい暴力で。三度目は愛に包まれて、四度目は刑務所の中

(中略)

最後に言いたいのはいくら幸せをさがしても探してもどこにもないってこと。なぜかと問われればこのあたしは流木につながれたままだから♪」

鈴木慶一「ヘイト船長とラヴ航海士」より


 ***


ひどく心に残るのだ。流される者の悲哀が。
かなしみと暮らし、激しい暴力に出会い、ついに愛に包まれる、と思ったら最後は刑務所だ。

心の拠り所、思想の拠り所、そのふるさとを確固たるところに持たないものの卑賤な悲哀が。
(この歌の対には「流木の歌」というのがあって、照らし合わせるとまた全然違った意味が浮かび上がってくるんだけどね。)

 ***

…そんな風に弱くたよりない私の考えは「場所」に支配されている。
同じテーマを考えていても、朝台所でキャベツを刻みながらの思考と、五月の緑と金色の太陽の下で歩行しながらの思考はおのずから異なる。

能動態ではなく受動態。

だから、うっかり誰かから何かを言われたら、まずはその誰かの考えをまるごと飲み込んでしまう。相手と同化してしまうのだ。相手のものさしにのまれてしまうのだ。こうこうこうだからダメなやつだと言われれば、そうか、私というこの対象物はこうこうこうだからダメなんだな、と相手の論理をまるごと受け入れてしまう。嗚呼のまれてしまう。

かなしい。闘わずして負けている。生まれながらの負け犬である。

だけどやっぱり存在を限られ決めつけられ否定されるのは、くやしいんである、かなしいんである。血液型占いをされた気分なんである。なぜだろう、と思うんである。なぜ私はいつも負け犬なんだろう、と。


もちろん自分に関しての批評には限らない。
政治経済社会、人間関係、倫理、大人の常識。

いろんなひとがいろんな正義を言うのをいちいち信じてしまうので、それが互いに食い違っていたりしたらもうパニックである。

わからない。そして選べない。
倫理の相対性は蟻地獄である。

…とりあえず最初から負けている。

だからとりあえず部屋の隅で背中を丸め、ただひたすらに負け犬エッセンスが骨の髄までたっぷりしみこむのを待つ。その哀しみと混乱と屈辱と理不尽を味わい尽くす。

そしてその中から、井戸の底から、何かがゆっくりと立ち上がるのを待つんである。たくさんのなぜだろう、がゆっくりと何かをかたちづくるのを待つんである。それだけではない、その時私はきっと私の中のどこか深いところに封印された激しく熱く濁りうずまく鋭い反感や怒りに似たものが潜んでいるのを感じることになる。

弱いお腦でしかできないこともある。妖怪は真正面からのよい視力では見えないという。見てないつもりのななめ見のときしか見えないという。上からでは見えない風景が下から見上げればみえる。いじめる者にはわからない見えないものがいじめられる側には見える、わかる。

飲み込まれ食われてしまったあとの敗残を生きる。
だけど、実は飲みこまれなければ、食ってくれるものがなければ、カラッポな私はほんとうにカラッポになってしまうのだ。生きられないのだ。

だから、私の思想を食ってしまう、食ってくれる人を、言辞を、私はとても注意深く選ばなくてはいけない、と思う。
今までそれを指摘してくれたひとたちは皆わたしの大切な先生だった。師は選ばねばならぬ。そして私は師を食って生きるのだ。


宮澤賢治詩集「春と修羅」に、「林と思想」という詩がある。

 ***

そら、ね、ごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈のかたちのちいさな林があるだらう
あすこのとこへ
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行って
みんな
溶け込んでゐるのだよ
  こゝいらはふきの花でいっぱいだ

 ***

この詩のイメージが好きである。

「わたしのかんがへ」は、「思想」は、そんな風にたよりなく風景に流れる。けれど、風景はそのときわたしそのものだ。できうればその風景は、ふきの花でいっぱいの美しいものであってほしい。

海の底の底にひそむアメーバは、弱いちいさな自分の考えが、ひとつひとつ、あぶくのようにたよりなくきらきらと光る水面にのぼってゆくのを眺めている。消えてゆくあぶくの一瞬のきらきらの、その存在証明を書きとめる。