酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

喪失

赤ん坊の時、失くしたものはまだなにひとつなかった。

なんにも持っていなかったけどあらゆる可能性をもっていた。ポテンシャルマックス。

…違う。

可能性ではない。文字通り世界丸ごと所有していたのだ。世界から分離されていなかったのだから。すべてを所有し、それを失う恐れすらもたなかった世界の王。

カオスから分離し、ロゴスの中で個として生きはじめ個として世界のさまざまのかたちを所有してゆく。有形無形、形而上形而下、あらゆるレヴェルであらゆるかたちで。それが己をかたちづくりアイデンティティが形成されてゆく。

そして己が得たものに気付いた瞬間、それを意識した瞬間、その喪失への恐れが始まる。それを失うことが今現在ある己の存在そのものを損ない失うものであると感じた瞬間。


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私は幸か不幸か子供の頃に身近ななまなましいかたちでの死を体験したことがなかった。(飼っていたウサギを失いそれを学んだことはあるが。)

実際に思い出すごとに吐き気がするような恐怖を伴った喪失を体感したのは高校の友人が30歳を前に癌でなくなってしまったときだ。

あれが最初の激しい恐怖と痛みを伴った死と喪失からのリアルな宣戦布告であったように思う。胡乱な記憶によるとおなじころ祖父母も亡くした。


喪失についての、これは下書きである。
(一生私はこのことを考え続けると思う。)

下書きだけど、なんだか同じ穴のムジナ状況にあるようなものすごく心配な方の言葉を受け取ってしまった気がするので、繰り返される喪失があんまり怖いのでとにかく何か書いているんである。

喪失は怖い。喪失があるくらいなら、そうしてそれを恐れるくらいなら、最初から何にも得るべきではないと思うくらい怖い。

(私は今ここで「死」と「喪失」を同質のものとして論じている。)
(何かを決定的に失う、という致命的な経験のこと。)
(それが己の命のことであれ、親しいものの命のことであれ、愛しく思うものとの別離のことであれ、失われる風景のことであれ、どれも均質にして同質な「喪失」として。)


得たと思うからいけないのだ。あるいは得ているものに対しその喪失を絶対に心配してはいけないのだ。(これは仏教的な思想に寄り添っているのではないかと思う。執着を戒め悟りの境地を探る方向性。)

他者(あるいは失われるべき他者としての自己)(ううむこれではわかりにくい)とはどういうものか常に注意して考えていなくてはいけないのだ。自分は何を恐れ何を欲しがり何を大切に思っているのか。

やがて必ず失われるものである自分や他者の枠組みのことを、その存在のありかたのことを。(己自身を、その属している世界の構造を、客観、傍観、鳥瞰、神の視座、読者の視点を持って眺めるということ。そしてその視界をどこかに保ちつつ同時に分裂した下位レヴェルの物語の登場人物としても世界にコミットしているという状況を実現させること。真摯に、しかし執着することなく他者に相対するということ。)

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(このような、喪失とそこからの救済をめぐる物語として、以前このブログでも考察した梨木果歩「海うそ」が参考になると思う。→こちら


この物語の中でクローズアップされているのは痛ましいほどに切なく、そして容赦なく逃れようのないものとして重ねられてゆく「喪失」というテーマである。

主人公は、その道行の中で、たくさんの喪失をめぐる物語を渡りあるきながら、そこからの救済を求め、最終的には神の視点、読者の視点という超越の視点を得てゆくことになる。そのような、うつくしい救済としての「世界を認識、把握するための思考の構造モデル」をこの作品に読み取ることができると私は考えた。)

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…死の恐怖について高校の先輩と話したことがある。
彼は心臓に欠陥が発見され、その死の恐怖に耐えきれず自ら命を絶ってしまおうかとまで思いつめたという。夜、台所の包丁を眺めながら。


それを恐れる心はいつでもその実際よりもはるかに大きく激しい苦痛である。その心の中のバケモノに魂を食われ続けるくらいならいっそ死に飛び込んでしまった方が楽なのだ。

徹底的に愛するべき尊重するべき大切に扱うべきものを、その不安定さを恐れそれを絶対にしたいがために叩いて試して壊してしまう衝動というものが存在する。皮肉な倒錯である。


ううそしてだけど今夜はとりあえずどんどんわからないです。

こういう危険な思考パターンを修正するために明日も生きねばならぬ、というのがとりあえずの正解であると思っている。

これは何かのまとまりをつけてそのうち書き直す下書き。でも出してしまっておく。なんとなく。酔っ払いだから許して。