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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

一生おぼえてる

自分の「わからなさの森」の中に放り込まれている言葉や風景の原料として比較的多く登場する友人はある程度特定される。

男女問わず。

親友だったり付き合った人だったり尊敬する人だったり、とにかくかかわりの深い人、今の自分を構成する重要な要素となった人、好きなひとたちなのだと思う。

言葉はそのときの風景、彼、彼女の表情には分かちがたく結びついているのだが、文脈はといえば不思議なほど完全に切り離されている。

我が「わからなさの森」に放り込まれたとき言葉は既にその具体としてのコンテクストを失い抽象のレヴェルへと投げあげられているのだ。

  ***

高校時代おそらくもっとも多くの時間を共有しもっとも多く語り合いもっとも多く言い争いもっとも多く喧嘩をしたM子(今も歩いて15分のところに住んでいる。)の言葉はときどき本当に不可解で不思議であった。

決して論理的なタイプではない。漫画は読むけど本はあまり読まない。論理か感性かといえばものすごく感性に偏った人である。喧嘩をしたのも言葉が通じなかったからだ。(と私は思っている。)(今でも。)(でもこれを蒸し返すときっと今でも喧嘩になるだろうから言わない。)

だが彼女はひたすらものすごく感性に忠実であるという点において私と共通する部分が多いのだと思う。だからいつも一緒につるんでいたのだ。周りの人たちが全然ついてこられない奇妙なところで我々二人だけがバカみたいに大笑いしてたことっていっぱいあった、気がする。

だがヤツは当時の私に理解できないこともいっぱい言いちらしていた。そして生意気ざかりの高慢ちきな高校生だった私はそのわからなさを一応摂取しながらも「わからない」その言葉をどこかでバカにしていたような気がする。

何年も何十年も、その素朴な感性に忠実な彼女の科白が、鮮烈な痛みや重量感を増しながら私の中で新鮮な驚きでありつづけるだなんて、全然思ってなかったのだ。

「高校のときってね、永遠にあの日々が繰り返されるんだってなんだか絶対そう思ってたんだよ。」
「すごく変なひとにでも、みんな、あのひとは、ああいうひと、って、そうやって言って笑って、それでも仲間で友達で、それだけだった。高校ではそれが当たり前だったけど、卒業したらそうじゃなかった。」
「○君みたいな男の子ってさ、彼女とか奥さんでないと誰にもほんとに考えてること言えないんだね。」
「とっときにしといたものって絶対ダメになる。」
「今日もごはんが食べられると思うだけで生きてる。」


たくさんあるんだけどすぐには思い起こせない。語録を作っておきたい気がする。
まっすぐに、感じたことを。余計な物語や論理にまどわされることなく表白するということの希少さを思う。