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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ネギを刻む

「わからなさ」の森を心の中に持っておく、という趣旨の文章をいくつか読んだような記憶がある。わからないものを拒否することなく解釈することもなく、わからないまままるごと心の中にしまっておくのだ。

わからなさ、の豊穣。

世界はわからないもの、という基本概念を精神の根幹に据えておく意味もあるし、常に探究する姿勢をそれは呼び起こす。

私は毎日大抵のことはかなしいほどわからないので、心に引っ掛かったものはとりあえずわからなさの森に放り込むことにしている。

誰かが口にした何気ない一言とか、読んだ本の一節とかね。

わからなくて気になることほど繰り返し頻繁に心に浮かんでくる。何か考える、それは必ず何かの手掛かりになってくる。「気になっているけどわからないもの」のなかには必ず自分の考えにとって大切なものが、貧しくきれいに刈り込まれた一つの合理的な論理ではなく、混濁したマトリックス、全体性のままにとりこまれている。

そういうものの一つ。
江國香織の短編の中で主人公が台所で「ネギを刻む」シーンがある。

… … …

例えばNHK朝のドラマ「ごちそうさん」のめ以子は心が波立つとおばあちゃんの糠床をかき混ぜるし、春樹の小説の主人公は混乱するとシャツのアイロンをかける。江國香織の短編の中では、女主人公は自分の中のどうしようもない巨大な寂しさをひとりで抱きかかえる夜、ただひとり泣きながらネギを刻む。

心を鎮める、自分を守ってくれる「絶対」を感ずるためのそれぞれの儀式は必ず自分の脳の中の絶対安全基地に繋がっている。

そうして、永遠のイデアは、きっと、大抵規則正しい日常性。生活の基盤、サザエさんの中にあるのだ、と個人的に私は思っている。

大層なドラマチックな大言壮語の力技の物語、大衆を扇動するタイプの抽象された言葉の力にも本当に素晴らしいものが潜んでいると思うけど、好きだったりするけど。とにかくその抽象の言葉は、下位レヴェルにおかれた個々の母胎としての具体を決して隠蔽してはならないのだ。一人歩きしはじめたその抽象の正義は、実体のない支配と権力の匂いをまとう。国家は大衆という顔のない集団を示す言葉のなかに一人一人の個人の顔があることを常に新鮮に考え続けねばならぬ。

め以子の糠床はおばあちゃんとおいしいものへの回帰、シャツのアイロンは日常性と整合性、理不尽に犯されないあるべき美しい秩序をもった論理への呪文を唱える仕草。ネギを刻む、恋人にも友人にも分かち合えない己の悲しみの気高い寂しい誇りを抱きしめる、ネギを刻む。

個人はそれぞれが自分だけのそんな儀式をもっていないと、なにか絶対的なよりどころを社会的なもの、外側に求め、内側に宗教の輝きを持つあたわざる者は外側にその宗教的拠り所を求め、結果的には権力構造の中にその安心を求めるようになる。他者に投影しようとする。自分の耳で何かひっかかる小さな声を聴く、自分の頭で考える、というめんどくさいことはしなくなる。


自分だけのルーティンへと回帰する儀式。
宗教を信ずる者が日々の一見無意味で非合理的な儀式を大切にする意味になんとなくそれは通じてくるようだ。

毎朝定められた聖書の一説を読む。

毎朝のお勤めと称し、お経を唱える。座禅を組み、瞑想する。

定められた時間にメッカに向かって礼拝する。


雑念を排除する。魂のウイルス駆除。だがこれは同じ形式をとった救済のメソッドでありながら、真逆ベクトルの危険を大きく孕んだものだ。聖なるもの大きなものへと自我は仮託され投げ渡され、共同幻想の一部へと還元されてゆく、そんな救いのかたち。逃避。もうひとつの思考主体放棄のシステム。

身体レヴェルで刻み込まれるルーティンの力。

これは両義の力である。注意しなければならないのは、その儀式が実際の既成のドグマを備えた宗教である場合、それをメソッド、道案内としても、必ず自己の内部、あるいは自己と神との直接の対峙としての孤独な作業でなくては個体としての主体性は保持できない、ということだ。決して共同作業であってはならない。讃美歌を合唱する陶酔、朝のお勤めで集団でお経をあげる陶酔。…そうなるとここではまったく真逆ベクトルの方の力が主体となる。

(学生時代、カルチャー体験みたいなので一泊禅寺修行体験ってしたことあるんだけど、朝もやのたちこめる早朝のお堂での朗々たる美声のお坊さんの般若心経はもうトリップですな、トリップ。一瞬激しく彼にホレた。まさしく宗教は麻薬である。)(私は結構惚れっぽい。)

自己の思考、アイデンティティそのものの重みを一旦別のフィールドに投げ渡し別の論理の光に照らそうとするときの両義性の問題がここに現れてくる。

…ルーティンの安心感は一種問題からの逃避である。

ではどこからどこへ逃避するのか。

波立つ心、理不尽へのとまどい、考えの行き詰まり。悪意。世界の閉塞感。何かに支配される、理不尽なものに支配される違和感。

さまざまの悪しきもの。自分を損なうもの。自己自身の思考の主体性を奪い取ろとする精神の中の侵入物。権力。それは外側から圧迫する単純な力のかたちをとることもあれば、がん細胞のように己自身の細胞に侵入しくいつくす内部へ侵入するウイルスのかたちをとることもある。どこからが自分なのかの境界すら曖昧になってゆく。ただ滅ぼされる。支配される。

それがいったいなんなのかを見極めるため、あるいはそこに呑まれてしまわないための拠り所をどこに求めるか。どうやって求めるか。

己の内側に救済を見出すことができなかったとき、それを外側のシステムに求めてしまった例といえば、例えば、ひとつ。

たくさんの具体、個々の場面での正義や美しいもの、秩序を守るためのガイドライン、法律や権力、それ自体は透明なはずの抽象のシステムがある。

だが個々を下位レヴェルにおき、超越の立場でそれが働き出したとき、奇妙な混濁が始まる。抽象が抽象でなくなり、奉じられる神おおいなる聖なる正義としての人々の「思い」の具体性を備えた権力、のニュアンスを付与されてくるようになる。

それは思考の主体であることを己の存在の根っこのところを放棄し思考停止し、外部の権力構造へとさ迷える魂を売り渡し個々の顔を失い、集団的自我へと帰依することによって救済を求めた大勢の人々のねじれた支配欲望正義への希求の、その妄執の重みの堆積した巨大な問答無用の権力を振りかざすバケモノのかたちである。金科玉条

あるいは経済的な問題や社会的成功、名声、マスコミの力。霊性をはがされたモノたちの流れのゲームの中での勝利を目指しそれら弱肉強食のシステム自体に至上の価値、生きがいを見出す。無神論理経済至上主義が基本である現代社会の大多数の人々たちが奉じているのも一種のこのような権力構造を神としてあがめる盲信的宗教システムだ。

これら生まれてしまった集団的意識による唯一神に対し、その同じ論理地平からしか発されない知は平板にからまわる。

これら大きな力の声に揉み消されるもの。逆ベクトル、小さなものの方へ、下の方へ。大きな抽象をその足元から、いや実は母胎としてそのすべての実体を構成している個々の生活の小さな声しかもたないオリジナルの秩序。それは、たとえばカントの「 我が上なる星きらめく天空とわが内なる道徳法則 」のように内側と外側の秩序を、マクロコスモスからミクロコスモスの秩序の呼応関係を、絶えずあるべき正しい秩序の光を求め続けるたゆまぬ思考の、知の力を呼び起こす。

自分だけの寂しい気高さを、ひとときの救済のために売渡し、他者によって何か違うものへと変換されることなく己の思考、己の魂を個々のスタンスから外さないために、保持するために、ネギを刻む、糠を混ぜる、アイロンをかける。秩序の儀式のダンス。

己自身の肉体性を備えた自身の牙城としてのルーティンを選びとる、その始原へと立ち還る。自己内部に自分を守る日常のイデアを投影しなおす、強さとそうしなければ対しえない弱さ。自分だけの、世界と自分との関わりかたを常に考え続け見失わないための。

逃避と呼ぶのは間違ってはいない。だが己のホームがなければ闘えない。