結構ストイックな麦酒党である。
だがしかしそれは泡と液体の比率がなんちゃらとか注ぎ方がなんちゃらとかグラスの形状がなんちゃらとか、時間と空間を美しく楽しむグルメでツウな人々の美しい薀蓄を奉じるという意味での麦酒党ではない。
そういうのはぶっとばして、深夜、一人の部屋でひたすら缶から壜からがぶがぶラッパ飲みで耽溺するのを基本とする、そういう類の麦酒党である。
酒飲み美学を持つ友人からは「また缶から直接飲んでるのか、グラスに注げ、グラスに。」としつこく怒られている。
バーボンのロックをなめながら、とか、うまいものを食べるとうまい酒が飲みたくなる、とかつぶやきながら洒落た酒肴を並べて日本酒をちびりちびり、とか、そういうエレガントなアルコホルの嗜み方はただの憧れである。
(勿論ときどき浮気するし、一通りいろんな酒は飲むんだけど、葡萄酒とか日本酒とか結構好きなのあるんだけど、その度に「麦酒の神様ごめんなさい。」と神様のバチを恐れ、別っこで麦酒を飲み直さねばならなくなる類のストイックさである。)
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で、今はきれいな緑色のボトルのハートランドをエレガントにラッパ飲みしたとこなんでありますが。
こういう瓶ビールをラッパ飲みすると、自分が場末の酒場の裏口の裏通りにいてね、こうね、ボトルの首のとこ持って、底をそこいらの壁にガシャーンとぶつけてギザギザに割ってふらふらよろめきながら振り回し、絡んできたチンピラに啖呵切って凄んで見せる、そういうシーン想像しちゃうんである。
ぞくぞく。
…多分、そういうことなんだろうな。この、ぞくぞく。
オレ実際はものすごい貧しい体躯の持ち主でチビで老人で病弱で、おまけに社会的弱者で負け犬で、心身共に脆弱がキャッチフレーズ、人類で最も弱いカテゴリに分類される人間である、おそらく。だからそういうことできない。
だけどしかし、もし、それができてしまう強者の立場、肉体的な頑健さを持ってしまっていたら。
己の中のやるせない過剰、衝動、行き場のない理不尽への怒り、悲しみ、苛立ち、絶望。そういうものを、この「ぞくぞく」の蕩尽に託してしまう誘惑に駆られてしまうのかもしれない。衝動、堕落に身を任せる官能。
(私には核ミサイル発射ボタンを持たせてはいけない、絶対に。)
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さて、ウチのパパ(今も実家で健在です。)は下戸の甘党なんだけど、いつぞや、食卓のチョコレートケーキをじっと見つめてしばらく黙って座っていたかと思ったら
「あー、もうめんどくさいから食べてやろう。」
とぺろりと平らげてしまったことがある。ものすごくでっかくて甘くてこってりの超ハイ・カロリーを約束するタイプのケーキであった。彼は健康に留意するためダイエット中であった。
めんどくさいから、ってなんだよ、と思ったんである。
おいしそう、食べたい。でも食べてはいけない。この葛藤。めんどくさい苦しみである。苦しみから逃れるにはその二項対立「食べたいー食べたくない(食べてはならない)」からの止揚を目指すしかない。すなわち、食べてしまうんである。食べてしまわない限りその葛藤は終わらないからだ。そして今目の前にあるケーキをぱくぱく食べてしまうことが自分にはできるのだから。
…やってはならないーやってみたい(ぞくぞく)この禁忌と衝動の葛藤を止揚する何もかも振り捨てた激しい暴力の実践への傾倒。パンツを脱ぎ捨てる衝動に従う一瞬の解放の激しい陶酔と快感であろうことよ。
だがその後にくる罪悪感は、その一瞬の禁忌の快楽の報いは、取り返しがつかない。倫理を禁忌をその正当さを、ひととして生きるための正義を優しさを美しいものをすべて振り捨てた孤独な獣となってしまう以外には。
食べてしまったケーキは吐き出せない。衝動で殺してしまった生命は戻らない。傷つけた人は失われる。一生背負う十字架の重みは繰り返し重ねる罪の悪循環を生む。救済への痛ましいまでの希求の激しさもいやますものとなる。
(…性と暴力、そして救済の希求というの中上健次の宿題を振られたのでその前振りを考えているんである。)
ここから中上文学に切り込むことができるのではないか、という中上文学への一言の可能性を探るための準備メモ。
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で、おまけね。
負け犬。これが実は好きである。
歌の話をしてみよう。
それはたとえば場末のバーで飲んだくれるレナード・コーエンやトム・ウエイツのだみ声。セロニアス・モンクの濁った和音。「酔ってるのはオレじゃないよ、酔ってるのはピアノだよ、ピアノだよ…」
https://www.youtube.com/watch?v=oUeKDtMV1gA
…なんて情けないんでしょう。涙出そうに愛しい。
そして、「はみ出し者でかまわない劣等生で十分だ♪」と力強く謳いあげるヒロト、「井戸の底まで堕ちればきっとどんな人にも優しくなれるよ♪」とうたうヤナちゃん。闇、絶望、悲しみや寂しさを抱え込んだ先にある希望や優しさ、明るさ、力強さ、あるいは純粋な激しさ、ロケンロー。
オレがヒロトやヤナちゃんにこんなにもツボってしまうのはだな、彼らのインフェリオリティ・コンプレックスへの共振によるものではないかと思っているんだな、ウン。いわゆる負け組コンプレックス。
負け組である、理不尽である、不当である、己はダメである、誰からも相手にされない…というようなどん底な気持ちになったとき、それがどのように処理され昇華されどのような形で表現されるか。これが人間性であり個性であり芸術である、というような考えをもっている。
闇を抱いているからこそもう怖いものはない。どのような権力の物語にも既に惑わされることのない知性が確立される。
…大学では近代文学を専攻したんだが、このあたりの時代での文学史をさまざまな切り口で辿った面白い授業がいろいろあった。ひとつが「負け犬の系譜」的文学史である。北村透谷を中心に扱ったものだったが、大変興味深かった。
透谷は政治運動に参加しようとして挫折し、文学に転向した。このパターンは当時結構ポピュラーだったらしい。文学と政治は当時特に直結したものだったらしい。
「牢獄の記」だかなんだかそういうタイトルで、政治犯が牢獄から手記をしたためた、という設定の作品があるんだが、負け犬となって社会、外界とのアクセスを閉ざされたとき、「我がふさがれた目は内側に開かれたり」とかなんとかいうことになって…つまり、内側に開かれた目とは、「己とは何か」という文学の核であり、また外界のくびきからのがれた「その外側」としての世界、あるいは宇宙への意識であったのだ。
知としてのロケンローっていいたかったわけなのですが。
なんかワケわからなくなってきましたね。
またきちんと考えて書き直します、きっといつか。
酒足りないです。も少し飲んだら正体失って寝るです。
ちなみにmomong寝る前に唱える言葉は次の二つである。
昔ボスから教わった「寝る前に据えるお灸はバタン灸」
今は亡き母方の祖母ちゃんがいつも寝る前につぶやいていたという「さ、寝よ寝よ。寝るより楽はなかりけり。憂世の馬鹿が起きて働く。」
感動の名言である。