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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「僕の生きる道」草磲剛

雑記

二年前に書いたもの、こっちに転載。

これ好きだったなあ、とほのほのと思い出したんである。

>>>

草磲剛主演、2003年の連続テレヴィドラマである。

…もう10年も前になるのか。

高校生になったあたりからTVをだんだん観なくなっていって、大人になってからはドラマなんて数えるほどしか観てないと思う。けど、これには夢中になった。今までで一番かもしれない。

当時、第一回だけ見逃していたので、いつか最初から全部まとめて見直そうと録画をパソ君の中にしまいこんでおいた。

「今度といつかとオバケは出ないもんだ。」

と以前ボスによく言われたが、この「いつか」が来るときもたまにはある。10年後の今日、ダアと数夜かけて一気に観てしまった。

…やっぱりよかった。(ホウ)(タメ息)

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ということで、momong、つよポンの「僕の生きる道」に再びハマったんである。

そして今回一気に見たことで、リアルタイムで見ていた時には自覚していなかったこのドラマの大きな骨組み、そしてそこからの多様な物語の倍音を響かせるこまかな仕掛け、その構造が以前よりも見えてきたように思う。

今ここでは、とりあえず二つだけ書き留めておきたい。

まずは、このテレヴィドラマのおおまかな骨子、三部構成が吉本隆明の「共同幻想論」における「三つの幻想領域」という考え方にぴったりハマるものであることに気づいたということ。そして、第二に、小技としての高校の授業のシーン、その授業内容とドラマとの関わり方という仕掛けのことだ。

気づくと深まる。あ、と気づいたその瞬間、じいん。ついうっかり、感動。

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ーさて、共同幻想、ということ。

吉本隆明のこの著書は壮大な国家論、イデオロギー的な論旨が展開される難解なもので、有名な古典だからって学生時代に確か読んだっけ読んでないっけくらいの記憶、ほとんど全て忘れてしまっている。

が、ここで重要なのはただ彼の示した大まかな三つの幻想領域という思考モデル、概念だけである。

(本当は、この「幻想」というターム(用語)がセンセーショナルで味わい深いものなのだ。「概念」「思い込み」「信念」による「概念と存在」の関係性という論理のニュアンス、唯心論的な有と無の関係、存在論を示唆しているようだ。だがここでは深い意味にとらわれず、とりあえずは「考え」「概念」というニュアンスで捉えてよいと思う。)

つまり、彼の提示したのは次の三つの領域である。

1. 自己幻想

( 個人と個人の関係。芸術がこれに当たる。他者には影響を及ぼさないため、無制約に自由である。)

2. 対幻想

(個人と他者とのプライベートな関係。家族・友人・恋人がこれに当たる。)

3. 共同幻想

(個人と他者との公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合がこれに当たる。また、宗教は、個人の内面に収まっている限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想に当たる。)

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僕の生きる道」は、胃がんにより、余命1年と宣告された高校教師中村秀雄の物語である。

「死」を意識することにより明確に限定される「生」の輪郭。

それまで無難で凡庸な己の人生を自負しながら日々を流してきた28歳独身の高校生物教師が、残りの人生を自覚的に精一杯に生き抜く、そのめざましく濃い1年を描いている。

「1年って28年より長いですよね。」

死の宣告により、自己の人生の意味がまるごと問い直され見つめなおされる恐怖と苦悩の第一段階、そして新たに余命を生きなおそうと決心したときスタートする、もう一つの自己愛としての、他者、家族=恋愛問題。

更に、それらがすべて解決し美しくまわりだしたように思えたときはじめて大きくクローズアップされてく る、周囲の人々、生徒たちとの深い関わり、関係性、社会性、共同幻想

主人公のみならず、彼の生き方への真摯な自問の姿勢は、周囲の人々すべての人生の欺瞞、惰性と日常性をはぎ取り、改めて根本からその意味を問い直すものとなる。

ドラマは主人公、恋人、仕事場の仲間、これからの人生に悩み受験に悩む多感な生徒たちすべての人生を、三つの領域として区分けして提示し、ひとり(秀雄)からふたり(秀雄とみどり)へ、そして周囲のひとびと全体へ、と、すべてを相互に絡めながら、最終的には一丸となって共同幻想体の祝祭としての大いなるクライマックスへともりあがってゆく。

それが秀雄が提案し、生徒たちとともに情熱をかけて挑戦する合唱コンクールである。

秀雄の子供の頃の最初のうつくしい憧れ、思い出、夢、美しい讃美歌。そのきわめて個的で内的な記憶と幻想であった「歌」のイメージが、現実の多数の新しい子供たちの人生へと大きく広がり、合唱は受け継がれてゆく命と夢の姿として現前するのだ。

…すべてが巧みに伏線を張られ、絡み合いながら順序立てて合唱のヤマ場を構成してゆく見事なつくりではないか。

「自己幻想→対幻想→共同幻想」。「1→2→∞」
これはまさに三つの幻想領域の構造に見事に当てはまるドラマである。

さて、第一部のヤマ場は死の恐怖、自棄から自殺未遂に至るこのシーンだ。

死の宣告。
何故うまれて生きてきたんだろう、そして何故それが突然理不尽に奪われるのだろう。

孤独、恐怖。生きる意味を必死で模索し、快楽の蕩尽に絶望する。

言葉の無い幻想的なシーンの繋がりの中、十字架を思わせるポーズで、彼は崖からゆっくりと落ちてゆく。

この後助けられ、母、医者との対話、過去の思い出により、生まれて生きるただそれだけのことに深く激しい意味を見出す。(私はこの孤独で利己的で暗い苦い第一部が一番好きだ。人生へのまるごとの疑念から出発する絶望からの神への問いかけ、叫びを、内的な幻想シーンを交えて描き出してみせる。)

第二部は同僚のみどり先生との恋愛、いわゆる恋愛ドラマ的要素が濃いパートだ。

真摯に生きなおそうとする姿勢、仕事への熱意、第一の領域と第三の領域が一体となった生き方の姿勢が、第二領域としての恋愛、対幻想、みどり先生の心、存在をつかんでゆく。恋愛成就、余命の告白、一年も持たないと知りながらの結婚。

50年分の幸せを1年に凝縮して過ごそうと誓い合う二人の生活は切なくも美しく甘い。純粋に幸福であればあるだけその確実な喪失の予感は痛ましく胸に迫る。

彼らの生き方は、ひとは本来、日々を必死で幸福であろうとしなければならないのだ、という、日常と惰性をそぎ落とされた真理を周囲に気付かせる。そして、その心の共振が第三部の共同性へとつながるダイナミクスとなってゆくのだ。

1と2と多数は、常に互いに影響しあいながら関係性の中にその存在の意味を確立してゆく。

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さて、もうひとつ気付いた、この三部構成、骨組みとしての構造とは対極にあるもののこと。

小ネタ的ではあるが、例えば高校の授業シーン、その内容に関してである。

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…みどり先生の国語の授業シーン、漱石の「こころ」だ!

と気づいた瞬間、実は感動してしまったのだ。

これはあまりにも巧い。

ドラマの中では、チャイムが鳴って授業が終わるシーンの直前、Kが自殺したのを知った先生の独白の部分が使われていた。

「もう取り返しのつかないという黒い光が、私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らしました。」(新潮文庫昭和58年版仮名遣い)

という部分だ。

「こころ」でのKの自殺場面である。Kを裏切り追い込んだ「先生」の心をこの先の一生を照らすものすごい絶望の闇の永遠と一瞬のクロスするシーン。

このテクストの衝撃のシーンは、秀雄の余命一年の宣告シーンのショックと重なるものである。が、ここにはそれ以上に「こころ」の物語構造そのものと重なる仕掛けがある。

そうだ、「こころ」で、「先生」は、先生を慕い、その過去を知りたがる若い学生の「わたし」に、自殺(おそらく)する前に初めて過去を物語る(手紙を書く)。

己の過ちを、己の暗い過去を、己の血を「わたし」に浴びせかけるようにして。そういう教えを、物語をするのだった。

この構造は、倫理的には逆(秀雄は暗いものではなく美しいものを物語る。)だが、「僕の生きる道」の秀雄の生き方が、生徒たちへと引き継がれる構造に重なる。

秀雄の死後五年。

最後まで秀雄に反発していたクラス一利己的なエリートガリ勉君が、秀雄の死によって己のぶち当たっていた壁を乗り越え、新しい人生を、生き方の示唆を得る。そして秀雄の後を引き継ぐようにして同じ学校の教師になった日。

秀雄の死を浴びせかけられた若い命が、その死を(=生)として己自身新たに生まれ変わり、再び次代の若者たちへと秀雄の物語を語りはじめる。後日談としての最終回。

秀雄の生き方、命そのものが次代の心へと引き継がれた、そのような形での、命の永続性をこの構造は訴えかける。

…ああ、このドラマは「こころ」への一種裏返しのオマージュでもあったのか。授業の一コマのシーンは、私の中で、ドラマ全体の意味を深い色に染め上げた。

「私は今自分で自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです。私の鼓動が停った時、あなたの胸に新らしい命が宿る事が出来るなら満足です。」(こころ)

秀雄が生物の教師であり、命の発生の仕組み、DNAの構造の授業シーンをしつこいほど映し出していたのも、ここに重なることができる。永遠への命の連なり。