酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

アロハー

アーメンとかハレルヤ、インシャーアッラーってなんだか発想が重なっている。南無阿弥陀仏や南無妙法蓮経も同じような感覚だ。

すべては神の意のままに。(わしゃ知らん。)

ゆだねてしまう、他力本願、思考停止、罪は償われている。よきかな。感謝。

だけど、同じように感謝や敬虔さをあらわし、同じように宗教的なところに語源を持つ挨拶言葉でも、アロハー、となると全然違う。崇敬への対象が違う。

素朴な喜びや愛、生命賛歌と、抽象な神への意志的な帰依との違い。これは、原始宗教アニミズム的な土着宗教とソフィスティケートされた世界宗教の違いの基本だ。


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でも、大体、原始宗教っていうのはもちっと怖いもの、畏怖に満ちた側面の方が主体になってるんだな、気候の厳しい生きるの大変なお土地柄だったりするときっと特に。

気まぐれでむごいバチあてたりするし。理不尽な天災は当たり前だし。

そしてそれは、たとえば時代が下っても、おんなじことだ。八百万の神様。

内村鑑三の気持ちがよくわかるなあとときどき思う。

たくさんの神様、たくさんのあらゆる倫理の相対性に耐えきれず、敬虔な彼は唯一神の思想に身を投じたのだ。楽なんである。何が正しいのかわからないのはほんに耐え難い。

なんだかね、この唯一神の唯一の正義の論理、他を許さない融通の利かない息苦しさと、融通が利きすぎてなんだかどう考えていいかわからなくなってしまう八百万の妖怪的カオス、倫理の相対性の恐怖、どっちも避けてるのが理想的な「アロハー」、っていうような気がするんだな。

イヤハワイの言葉きちんと調べたわけじゃないけど、よく知らないけど、とりあえず言葉ヅラで、概念の可能性としてそういうのあるよな、って思ったんである。ハッピーの在り場所の基本をココデナイドコカ神の国ではなく「イマココ世界の現場」の存在の喜びにおく、というその概念ね。

…アロハー、ハッピーである。