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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

人生のリソース

先日昔住んでいた場所を訪ねた。
昔世話になった方の病が篤くなり余命を宣告されてしまったというかなしい報せを受けたので、入院しておられる病院へお見舞いに行ったのだ。
病室に入るとき、緊張した。
もう何年もお目にかかっていなかったから、大変に衰えてしまったと噂を聞いていたので怖かったのだ。
そして、一目見て、生々しい現実の姿を目の当たりにして、やはり動揺した。 あんなに頼もしく大きかった方があんなに小さく痩せてしまって。枯れ木のような細い頼りない腕になってしまって。
ひたすら眠っておられた。
90歳近いご高齢だから無理ないとはいえあまりの激変ぶり。
思いがけないほどの動揺であった。

***

老衰、という現象に関して。
すべては衰えてゆく。
一生懸命身に付けてきたものが、努力が、すべて泡沫に帰してゆくのか。人格的にも決して向上するわけではないケースが多い。身に付けた社会性をはぎとられ、寧ろ利己的な原始的なものへと還ってゆく。
こういうのはかなしい。人間であることから離れてゆくようで。
老いる、衰える、というところには未来や希望がない、いいものが失われ悪くなり死が待っているばっかり、っていう心持ちになる。
最後がそんなだったら、一体生まれてきた意味はどこにあるんだろう。

…イヤ絶望はいけない。そもそもの大体、人間には生きる意味や希望や未来がなくてはいかんのだ。
そうだ、もしかして違う可能性があるのではないだろうか。
外側から見るのではなく、自分がその立場になった時のことを想像してみる。 私たち通常の社会的な意味で「衰え、衰退、喪失」、とされるマイナス要素とみられるその眠るばかりの病室でのまどろみの中で、本人の心は何を感じ、何を見ているのだろう。微睡のあわい夢を渡り歩き、己の人生のさまざまの記憶の中の夢を渡り歩く。


***


ひとつ考えた。


***

例えば、昔住んでいた場所を尋ねると、懐かしさに胸が痛むような甘い切なさを感ずる。
この懐かしさとは一体何なのだろう。
確かに激しいかなしみや痛みであるのに同時にそれを快楽と感ずるほどに甘くて優しくて幸福であることが矛盾ではないというこの不可思議の恍惚。
この感覚。 これはガラス一枚の向こう側、ありありと見えているのに触れられない、手の届かない世界、過去と言われる方向で失われた自分自身の一部に出会った気持ちなのだ。
自分の欠片との遭遇。 喪失の事実すら気づいていなかったその喪失に気付く痛み、束の間それを取り戻した激しい喜び。再びひとつになることはできない痛みと分化したことによる己の豊穣の喜び。確かにそのときが存在したという生命の鮮やかなリアリティ。
そのとき世界は己の内部にあるのか、外部にあるのか定かではない。己の感性というフィルターを通して初めて観測可能となった世界の存在とは、外部でありまた内部である。(唯物唯心、古典的な哲学的命題ではあるが。)
かつて住んでた場所、行った場所。

そこで見た風景、己の感官が感じたこと、思考したこと、体験、その人生の財産(人生そのもの)とは、その対象を体験、記憶として得ることであると同時に感じた自分をその場所に残してゆくこと、その場所に己の一部を与えることでもあるのかもしれない。己は主体として対象世界を記憶の中に収めた、財産とした、一方的に得た、というつもりでいながら。
主体と客体の呼応現象としての体験は、一方的な収奪の関係にあるのではない。
まるごと記憶の内部にしまいこんだはずの財産は、実はその全体性、エッセンスを既に失っている。それは、場所、時空のリアリティ、現場性を剥奪されたただのイデアの影、或いはそれが起こったという印、その世界の「存在証明のための標本」に過ぎない。
むしろその記憶は内部であるというより外部の風景へと刻印された、換言すればその場所に魂の一部を奪われたという現象であるといえるのだ。
得るということと与えるということの同一ということについて考える。 感激、或いは世界との共感というその時空にのみ現象として存在するその場限りのかけがえのない全体性。

脳内に記録されたその記憶とは、それが確かに存在したという証拠、印として遺された形骸に過ぎない。そこからはみだし外部の風景に投影された内実こそが全体性であり、その場に戻った時に激しい郷愁とともに再醸成されるものである。インデックスとしての知と感覚を総動員した全体性としての智。

世界を所有すること(世界は自分の記憶の中のもの)と世界に所有される(自分が世界の一部になる)ことの矛盾と同一性が出会う現場。所有という概念 からの超越。(例えば愛というものにそれは似ている。与えるばかりでも与えられるばかりのものでもあり得ない。それは関係性である。与えることが同時に得ることである。与えることが限りない己の所有と豊穣そのものである。)
つまり、ひとは生まれたときから、ひたすら未来に向かって、未知の無限の世界を学び己の内部を豊穣化しながら、世界を体得しながら、同時に少しずつ魂を世界に配って生きているのだ、或いは世界に自分の生きた証を、魂のカケラを遺しているのだ。
この「場」としての世界、時空の感覚。己の生きた痕跡を世界に記すために己の魂のリソースをそこに費やしてゆく。
地霊、という概念の構造にそれは通じているように思う。アイデンティティとしてではなく、土地に付着した魂の痕跡としての幽霊。
長く暮らした感情を揺り動かした場所にはそれだけ多く濃く存在は得られ、失われる。再びその場所の記憶に出会ったときかつてひとつのものであった魂が呼びあい、自我が世界へ溶け去ってゆくような陶酔と恍惚を得る。
「懐かしさ」だ。
…そうやって魂のリソースを全部世界のあちこちに分配して使いきってしまったときが一生を終えるときであるとすれば。
死に向かう老人たちの集う病棟の、その死の匂いは、うつらうつらとした彼らのまどろみと夢うつつのなかにある老いさらばえたちいさな肉体は、みずみずしかった個体としての生命の輝きが、時の流れの中でそのリソースを惜しみなく世界にまき散らして行った後の形骸なのだ。
その人が確かに世界と関わりながら生きたという証拠、標本。
生命の輝きの本体は、既にそのひとの過去に生きた場所に分散され、永遠にその場所に共鳴しいきいきと歌い続けている。
リソースを使い果たし小さく干からびた肉体の形骸の表情の淡さ、死の匂いは、皆驚くほどよく似ている。五感も感情も世界の意味もすべては淡く鈍く穏やかに薄められた、静かな老衰の世界。 いわば無我と悟りの文字通り仏の世界に近づいてゆく。
そしてそれが完全に魂と切り離された時、閉じられたアイデンティティ、肉体から解放された生命は、個であった記憶をもちながら世界全体の豊穣へと拡散する。

そのひとが確かに生き存在したという生命の実体はそのすべてがその人が生き存在した場所に分配され、その豊穣な懐かしさの中に還ってゆく。一生をかけて分散し刻印した己の魂の場所へ。永遠にめぐる生命の力の連鎖にくみこまれ、世界に刻印され、世界そのものとして完成する。分断された魂がすべて合一す る、懐かしさの完成形へ還ってゆく。
世界と合一してゆくプロセスとしての一生、という構図である。
未来へのリソースに満ちたゼロから始まり、永遠の豊穣で終わる。

***

生まれ、成長し、老いて死ぬ、という現象の意味、人間がDNAの乗り物としてではなく個としてどのように意味づけられるかの試論である。