酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「海うそ」梨木果歩

幾重もの喪失。
さまざまの喪失の物語を重ねる旅なのだ。

時空を超えてゆく旅、さながらロードムービーのような旅の道行きの物語構成。これは、読者を今ある現実日常世界から、その宇宙的な道行への深みへと巻き込み、主人公と共に物語世界への旅に誘いこむためのひとつのシステムとして機能する。

主人公の旅行きの日常→非日常の感覚が、読者自身の日常→物語世界への心のベクトルに重なる作用により、共に旅してゆくリアリティを生み出すのである。

冬虫夏草」や「沼地のある森を抜けて」「植物園の巣穴」等と同じ、読者を不可思議な超時空世界に吸い込んでゆく、この著者独特の味わいを生みだすスタイルだ。

さて、エピソードの詳細は示されず暗示されているにとどまるのだが、主人公は婚約者が自殺し、更に相次いで両親を失ったばかりの若い学者である。その喪失感、いたたまれない気持ちに駆られるようにしてこの島の歴史と民俗の研究の旅に出かけてきた、という設定だ。

それはいわば、大切なもの、自分のよりどころであったものがいちどきに失われたアイデンティティの「喪失」であった。

島のもつ独自の宗教や文化、民俗における変遷、歴史。その中に見えてくる虐げられてきたさまざまの人々や風景のかなしみや痛み、喪失に、己のその喪失を重ね共振してゆく道行がこの物語の大筋である。

最初にズシンと響いたのは、廃仏毀釈の痕跡を調査しようとするシーンで、その研究への興味に関する主人公の語りである。

「明治初年、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れた頃、その怒涛のような〜見せしめのために、徹底した破壊が行われたのだろうと…」

迫害された仏教の記憶、修験者の記憶、踏みにじられた信仰。なぜそれらの印の刻まれた廃墟を訪ねるのか。

彼は語る。

「幼いころに学んだ小学校校舎が、取り壊されるのを見たことがある。
自分が毎日通い掃除もし、敬うように教えられた机や教壇、校長室の壁などに至るまで、取り壊し屋の手にかかって無残につぶされてしまった。あのとき、自分のなかの何かまでつぶされた思いがした。そのことを覚えている。後年、たまたま(中略)水害が起こった。流されていく自分の家を見て、大の男が身も世もなく号泣するのを見たとき、私は自分の学校が取り壊されたときのことを思い出し、彼は今、自分の存在の根幹をなすところのものが、暴力的な力で根こそぎ奪われてゆくような思いなのだということを察した。」

「自分の信仰、自分の拠って立つところのもの、自分の糧、誇り、生活、それらすべてが一瞬にして否定され、破壊されるのである。(中略)その辺り葛藤がどうなっているのか知りたかった。興味、というような悠長なものではない。むしろ、底知れぬ地の穴にともに引きずり込まれるような喪失感への共鳴が、自分の身のうちのどこからか響いて止まず、何とも息の詰まるような切羽詰まった不安に後押しされ、取り縋るように、私はそれを知りたいと思うのだった。切実に、思うのだった。」

大切なものを相次いでなくした主人公の喪失の痛みが、人々の歴史、文化、思想、パラダイムの中に刻印された同じ「喪失」を引き寄せる。彼は、己自身のその喪失を見据え、救済の方向を求めるために、その民俗という研究の旅へと駆り立てられているのだ。

島を研究調査してゆく旅が、同時に己の内側への探求になっている、外側と内側が重なってゆく旅の道行き。すべての不条理からの救済を求めながら四次元曼荼羅図的に時空を超えてゆく、この独特の旅物語スタイルの成立する構造的な所以である。

研究の旅の中で見いだされてゆく、歴史の中の人々の喪失、痛み、理不尽な迫害。遭難した船幽霊や悲しい恋物語、平家の落ち武者たちの落人伝説、その無念やかなしみに閉ざされたアイデンティティの危機のしるしは、主人公のそれに重なってゆく。この重なりが、彼がこの島をめぐる旅において、一人の中の抱えきれない喪失と悲しみが集団的自我のようなものの中へと共振し、共感し、解放されてゆく過程、治癒、救済としての生きた知のスタイルである。

それは、己のアイデンティティ自体の由来を、その正体を、他者の中に、歴史の中に投影し露わにすることによって洗いなおす、幾分客観的に見つめなおす道行であり、いわば認識、「知」による癒しの過程であると読み取ることができるものである。そしてそれはまた鎮魂のための旅であり、過去の魂(他者)の鎮魂=自己救済=知、という図式を成り立たせている。

その道行きは、地元の島民たちとのふれあいの描写と共に進行する。彼らの守る静かな日常、その日々の中に息づく世界観を、その古来の自然や神仏に対する無条件の慎ましやかな愛情と畏敬の念、生活の確かさに触れ、その、権力から踏みにじられた歴史や海で悲劇的に亡くなった哀しい亡霊や物の怪たちを慰撫し畏敬し共存してゆく人々との友情、穏やかな世界観と日常を生きてゆく知恵に包まれ共鳴することによって、それは、喪失によって空いたがらんとした冷たい虚無の場所に、何かあたたかく確かなものを残し、主人公の心に刻まれる記憶となった。

己を何かに託すということ。モノに。象徴に。民俗的な習慣や宗教が、家が風景が自然が、すべて世界がその存在すべてが、己自身のアイデンティティと不可分である感覚と地続きの畏敬の念をもって遇されている、文化、すなわち生活様式パラダイム

主人公の心の中で、その島の地を時空を超えて歩き回る体験は、その持つ歴史と己の個人的歴史を重ねた意味をもって立ち上がり、その喪失の痛みが知の力によって静かな変容を遂げていった。

一夏の研究の旅は主人公の心にその後を生きる支えとなる、大切な記憶を残したのである。不条理な喪失の痛みを痛みとして悼み敬い鎮魂する、そのような大切に残されている心の記憶が、遺跡が実在する、存在するという証として。


 *** *** ***


そして、50年後。

喪失、そしてまたその喪失の印の喪失。幾重もの喪失。

虐げられてきたものへの慰撫と祈りに満たされた島民の生活スタイル、世界観、民俗。その日々の営みにおいて尊重、畏怖されてきた歴史の闇部分を封じた遺跡、その証左すらも現代社会の経済システムは観光レジャーランドのためにつぶしてゆく。歴史を、多くのものが生きてきたしるしを刻んだ命の証左をつぶしてゆく。失われた無念の死の存在を思い悼む子孫の暮らしへの連鎖、人から人への連鎖は断ち切られる。

それらがあとかたもなく蹂躙され、むしろ悪意のかけらもなく淡々と失われてゆくことは、だが悪意や怨恨すらも入り込めないその無常さの強調によって、大きな流れ、無常そのものによる逆説的な絶対真理の境地を発見させる新たな道程となった。

***



「きれいだなあ」

海の上にきらめく白い蜃気楼「海うそ」を見て、何も知らない主人公の息子が呟いたこのひとことが、「海うそ」にかつて込められたあらゆる悲痛を、疑念を、苦しみを、不条理を、そして祈りを、ただひとつのシンプルな概念へと結びつけ、ゆるし、癒し、鎮める可能性を示唆する。

おぼろな幻である「海うそ」、そのたよりない幻のみが、それを見た歴史上のすべてのひとの切実な思い、祈りを共通の風景を見た者の心をつなげ、媒体となって他者へとつながる。時空を超えて唯一確かなものとして巨いなる次元への超越的な認識に至る道筋を示唆する。

これは、あるいは流転する世界、輪廻する生命の生老病死、愛別離苦といった苦しみを超越した仏教的な悟りの次元に近いものかもしれない。アイデンティティの境界を乗り越え、個としての生命の執着すらも捨てる自己ー世界関係の認識スタイルは、あきらめのスタイルに似ていながらそれとは逆のベクトル、喜び、幸福、全肯定の境地に至る知的跳躍を含んでいる。


「これもまた、幻。だが幻は、森羅万象に宿り、森羅万象は幻に支えられてきらめくのだった。〜(中略)〜『色即是空の続き』は、経の中では空即是色だったということを、今更ながら私に気づかせた。『続き』は空即是色だった。」


主人公は息子との会話の中で、50年前には見えなかった、気づかなかった島の地名や遺跡のエピソードに触れ、50年前の課題論文の未消化部分を補完、その精神の中で今までのすべての半端であった要素のピースがぴたりとはまり、ひとつの完成された図を描く体験を得る。

論の見取り図、それはそしてすなわち遅島の地図だ。


時空を地図として鳥瞰する超越した次元、いわば神の視点を得る直観的知的跳躍のためには50年という隔たりが必要だったのだ。遠くから己のその「とき」を眺めたときの発見を主人公は次のように表現する。

「時間というものが、凄まじい速さでただ直線的に流れ去るものではなく、あたかも過去も現在も、なべて等しい価値で目の前に並べられ、吟味され得るものであるかのように。喪失とは、私の中に降り積もる時間が増えていくことなのだった。
 立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。それは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。」


「立体模型図」。主人公がかつて個人の記した個人的な地の呼び名や印ばかりついた遅島の地図を手に島を旅したときの、その地図は、そのとき新たに主人公の人生を通して新な曼荼羅様の時空構造の厚みを持った新しい「立体」の地図となった。

地はカオスでありマトリックス、図はロゴス。主人公の描く「図」は彼の知により描かれた、彼の生きた証としての世界観である。

人は、地というカオス、マトリックスから己の内面をも映し出し、アイデンティティを証明するためのロゴス、図をもって世界を認識するための地図となす。すべての喪失がすべての真理へ、絶対性へ、実在へと喪失そのままのかたちでその意味を塗り替える。

「失うことへのいたたまれぬほどの哀惜の思いが、自分の内部で静かに変容していくのを、目の前のビーカーの中で展開される化学変化を見るように感じられた。」

喪失を受け止めるための治癒の方法への、模索。それは、主人公自身の知による超越次元での時空の地図を描く行為であり、それは人生そのもの、人生の、世界存在の、いや、存在の有無をも越えた全肯定の生命の輝きへの過程であったのだ。


「長い長い、うそ越えをしている。

 越えた涯は、まだ、名づけのない場所である。」



 *** *** ***




さてそして「冬虫夏草」でも重要なポイントだったけど、ここでも丁寧に描かれる食べ物のシーン、ものすごくおいしそうである。

何しろ食べ物の描写のいい文章は大体優れていると思うのだ。握り飯についての考察にはシビれた。具体が抽象に突き抜ける瞬間を見る興奮。

「不思議なものである。本人そのひとに相対した印象からよりもさらに強く、そのひとの作り出した『もの』から、その本質のようなものを合点するということは。」

…ずっしりと固く握られた握り飯の力強く実直な食べ応え、生きることの手応えのようなものを感じる描写である。

歌や絵や小説や…芸術と呼ばれるもの全般に、さらには生きることの芸術性全般に通ずるのではないか、この握り飯論理は、と思ったのである。そのひとの本質はその芸術 としての表出物を通してしか伝えられないことがある。換言すれば、受け取る人との関係性、作者と読者の現場のダイナミクスにのみ存在する。

「握り飯論理」はさらに、母親以外の人の握った握り飯を初めて食べたときの違和感の記憶の描写へと展開する。

「人間関係においての何らかの境を越えた気が する行為なのだろうと思う。そういう境は実は至るところにあるのだが、ひとは立ち止まってそのことを考えることはしない。」

人の手で握られたおにぎり気持ち悪くて食べられないという昨今の若年層の話を聞いたことがある。コンビニおにぎりじゃないと食べられない。…これもまた人間関係のメタファとして象徴的であるととらえることもできるだろう。



随分間をおいてしまったけど、やはりこういう小説は深い安らぎをくれる。

海うそ、梨木果歩。きれいな知の図式が描けそうだ。知の図、そして、地の図。
図と地(figure and ground)、ゲシュタルト心理学が提唱したそれのことを考える。

海うそ

海うそ