酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

年の瀬

関東の年末年始は、カラっと晴れて現実じゃないみたいな嘘みたいな澄んだ青い空、世界いちめんまばゆい金色できらきらしていて目がくらむ。風景も人々もその金の光に縁どられた幻影のように見える。

お正月準備の忙しさ、非日常のそわそわ感、非現実感の増すこの季節の風景が大好きだ。あんまり明るく眩いのに繊細で弱々しく儚い、不思議な切なさ、終末感を漂わせる斜めの冬の光。

繰り返される行事は、時間が直線状に不可逆に進むものではなく、らせんを描き繰り返される性質をもつものであるかのように認識させる作用を持つ。繰り返した四季を一回り、一区切り。去年のこのとき、一昨年のこのとき。…過ぎたこのときをすべて重ねて過去を貫きタイムトリップ、そして不可逆で残酷な直線の時間の中に閉じ込められた主体を無時間の時空に開放する。

今まで自分の過ごしたすべての年末年始がインテグレードされて今目の前に広がる風景に重なる。重ねてきた年月、生きてきた年月の、そのリアル。生まれて生きたそのリアル、その証を感ずる。

 

アスファルトにうつる自分の影を眺めてぼんやりと歩いていると、自転車の後ろに葉っぱついたままの大根山ほどのっけてよろよろと走ってゆくおじさんについっと追い越されたりする。

顔を上げたら金色の光にふちどられた大根の山とおじさんと自転車と。後ろ姿。

そんな風景を眺めたとき、パーンとなんかいきなり幸せになってしまったりするのだ。

アジアのどこかベトナムとか、そんな人々の暮らしのイメージがぷわっと重なる。自分は今そこにいるんじゃないかな、という行ったこともない国を心に宿す、意識のねつ造ごっこ遊び。ああ、行きたいな、とそのとき思う、楽しそうだな、まだ見ぬ国、人々の暮らし、というのを外側から見るとき生まれる非日常感、その解放と夢見る力の感覚のことだけで私の貧しい心はもういっぱいいっぱい。幸せだ。

どこかに行きたいな。なるべく遠いとこ。行ったこともない言葉も通じないにぎやかな街。成田から飛行機に乗って、いくつもの夜と昼を越えて。

そうだ、そして戻る場所など私はもうとうに失くしている。