酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

五感と統合

中央線で幼児が「ママいちじょうじだって、一乗寺!」「そうね、吉祥寺ね。」「うん、一乗寺!」。
 
子供よ、我々が今停まっているところは三鷹だ。
 
…かきくけこって発音しづらいのかな。子音発音体系、面白いな。フランス人ははひふへほ言えないとか、日本人はFとH、RとL聞き分けられないとか。耳でなくて脳で聞いてる段階のことな、音を。
 
五感が感知するランダムな情報を信号として受け取り、その膨大な情報の海から意味とニーズに応じた物語を構築するための取捨選択、そして「認識」に至る脳内作業プロセス。ある意味それは恣意である。
 
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確か中学にあがったころ、姪っ子がストレス性の難聴になったことがある。耳の機能には異常はないらしい。脳が耳からの情報を丸ごと拒否、あるいは耳鳴りとしてしか受け取らない情報処理プロセスの不具合。
 
このまま耳が聞こえなくなったら、と皆で青ざめて、あちこち病院めぐって大騒動、いくら検査を繰り返しても耳の機能に異常は認められない。姉など手話を習いに行こうというところまで覚悟していた。
 
が、とにかくゆったりとかまえ、学校に行くことも強要せず、周囲みなひたすらのんびりと明るく普通にふるまって接し、どうなっても大丈夫、大したことじゃないよ、どうにかなるよ、まもられてるんだよ、という日常の安心感を貫くことによって、彼女にはある日自然に治ってゆく兆しが芽生え、そこから徐々にゆるゆると回復していったんである。(ほんとにほっとした。)
 
ただ、それ以来、何かストレスがかかるたびに耳が聞こえにくくなるという体質(?)にはなった。一度そういうの体験しちゃうと本人にそのトラウマ、恐れが常にあるから、かえって誘発しちゃうんだよね。
 
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院生時代、当時、近代日本文学の世界ではスター的立場にあった著名な若手綺羅星先生が、ウチの学校に講師にきてくれたことがある。
 
才気煥発とはこのことか、明朗闊達、切れ味鮮やかな論理、自信に満ちた語り口、冒険的、新奇で刺激的な学説を次々ぶちあげる、攻撃的な論説。学会の中では(特にご高齢の教授たちの間では)かなり敵も多い方だったけど、若い院生たちの間では、カリスマとして絶大な人気を博しており、心酔者も多かった。(私は苦手だった。彼の著書にはついぞわくわくするような感動を覚えることはなかった。確かに刺激的なんだけど、小手先の理屈のクレバーさがゴツゴツしていてちいと神経に触る。論理のゲーム。あんなのよりワシの先生のがよっぽど素敵に面白い授業してくれる、とひそかに思っていたなんてことは口が裂けても言えません。)(夏休み、その先生の運転&解説つきのゴージャスな岩手賢治ツアーにお誘いいただいて連れてってもらったのは大変素晴らしい体験だったけど。)(学会の後の飲み会で、よっぱらった学者センセイ方がさまざまの派閥で妬み嫉みな陰口悪口言い立ててるのひそかに聞き耳たててるとびっくりするほど面白いのだ。私なんかチビの座敷童扱いで全然警戒されないからホステスのようににこにこして酒などついで差し上げてると、言いたい放題の垂れ流しが聞きたい放題。)(すごいねたまれてましたな、綺羅星の彼。)(老害と若手の世代間争いみたいなのとかもね。)
 
…で、敵の低レヴェルなそのねたみそねみいやがらせなんて歯牙にもかけないように見えた、その押し出しのいいパリパリの先生が、意外なことに鬱病になったことがあるという体験を話してくれたことがある。
 
ある朝目覚めたら、耳が聞こえなくなっていたそうだ。びっくりして耳鼻科に行っても原因はわからず。結局心因性のものだったという。
 
その自覚のなさにも驚くべきところがある。ストレスをストレスとして認知しない己の防御壁のこと。ぶっ飛ばしてこの世を勝ち抜き生きのびるためのヨロイのこと。どこか感覚器官や内臓が悲鳴を上げてサインを出すまで己自身が己の精神が傷ついているという自己認識を封じてしまう。
 
…まあとりあえず、耳ってそういうのと関連が深いんかしら、ということをこのとき初めて知ったんである。
 
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精神の問題は身体のトータルな全体性と対をなす、というか司っているから、精神のフェイズに支障があるときは、それは身体のフェイズにおいては万人に共通の特定の部位(絶対胃に出るとか)というよりはその個人の身体の「弱点」のところに症状があらわれるんじゃないかな、と思う。胃とか背の痛みとか頭痛とか疲労感、味覚がなくなるとか、出やすい部位というのはまああって、その中から、その人の生来の弱点のところから発現する。耳もその「でやすいところ」のひとつなんだってこと。
 
姪っ子のことであれこれ調べてみたらストレス性の難聴って結構ポピュラーだったのだ。
 
昨今では統合失調症とかも話題になってるけど、それは要するに激しいストレスによって五感の情報が統合できなくなった状態、身体領域の問題ではなく、脳の領域の問題。
 
幻聴とか幻視とかも。つまり、脳は感覚という「事実」を情報信号レヴェルでたやすくねつ造することができる。…五感の激しいリアリティはねつ造されうるもの、という事実にはなんだかものすごくぞくぞくする。世界の秘密の場所だ。ものすごく怖いんだけど、タブーを覗き見るようなスリリングな領域。
 
高齢者の記憶力が弱くなっていくのも、それは実は記憶が失われるのではなく、記憶の引き出しのたてつけが悪くなってスムーズに出し入れができなくなって、情報を統合することができない、物語を統御できなくなってきているということなのだ、というこの現象にもそれは通じてくる。
 
だが逆に言うと、あらゆる物語から解放される領域の可能性をそれは示唆する。これは不可知領域といってもいいフィールドなのではないだろうか。
 
「とらわれる必要はなく、己の感覚すら、すべてはなんらかのかたちでの情報操作による恣意の物語である。」と見切る知の領域を確保すること。或いはそのような形で世界にコミットすること。
 
なんだかこれってやっぱりエキサイティングだ。絶対の救済の可能性すら秘めている。統合失調症の牢獄の地獄を裏返したところにあるフリーダム。
 
 
なにしろ自分ってのはとにかく信じちゃいけないのだ。特に世の中いいことなんかないやって気持ちになったときにはね。