酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

我がバイブル

一日ひとつ、一日一話、という読み方が一番正しい宝物のような短編集がある。もうちょっと読みたいと思ってもやめておく。一気読み、という長編物語の醍醐味とは違う読書の効能。
 
或いはそれは己の内側の世界観を確かめる、心をチューニングするための方法。
例えばそれはクリスチャンが一日一節聖書を読むという儀式、仏教徒が毎朝唱える経文。モスクでの一日五回の礼拝。
 
世界と自己の関係性をよきものに調えるための日々の儀式なのだ。
 
とてもふさわしいのが、竹下文子さんの風町通信や木苺通信、そして今はアタゴオル。ルーティンに生命を与えるこれらの儀式。
 
またそれとは別に、頓服的なとっとき緊急のレメディとしてあるのが私のバイブル、安房直子さんの短編集。
 
ほんの短い一節で、世界が丸ごと塗り替えられる。即効の薬効。それは己の魂の根幹のところから抽出された副作用のないドラッグ、ミラクルな薬効、心の浄化である。
 
日々の暮らしの中でたまってゆく圧迫歪み穢れが、DNAに宿命的にプログラムされた虚無が絶えず仕掛けてくる寂しさの罠が、己自身を不幸の闇で腐らせてしまわないうちに。
 
圧倒的な内側からの光によって読み替える。正しいあるべき方向へとチューニングする。後天的な個としての己の生命に対し周囲から与えられたあらゆる贈与と愛、またそれらへの喜び感謝がそのアプリオリな光の中で響きあう。正しく認証される。アクチベーション。それによって成立する穏やかな幸福感があれば、日々の他の間違った閉鎖的世界論理の中で間違って傷つけられた痛みは正しく治癒されることができる。
 
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現実は芸術を模倣する。
 
のだから、にんげんとしての根幹、基盤が形成される時期に、世界に対する解釈のツールが、正しく明るい奇跡としての認識、ファンタジー(想像的、創造的、その語源的な意味で。)に満ちた喜びと驚き、大いなる愛であることは、大変重要だと思う。うつくしい絵本を与えられた子の幸福。偏在する無限の贈与と愛を受け取る能力。
 
そしてそこから得られた認識と思考は、記憶の中で、ブレンドされ、繰り返し幾重にも発酵し熟成して、時間を経てはじめて大人の芳醇な美酒としての甘い芳香を放つようになる。それは世界で唯一の美酒、自分自身、その生きた歴史の証。アイデンティティそのもの。(深く練りこまれ甘みと見まごうまでに熟成した辛み苦み渋みは美酒の芳醇な味わいの必須要素ではある。)
 
外部から定義され囲い込まれるアイデンティティの枠を超えて壊し、内側からあふれでるような輝き、その色調としてのアイデンティティ
 
その美酒は、アムリタ、あるいはエリクサー。あらゆる毒を中和し浄化し痛みを和らげ乾きを潤し、そして鋭い勇気を奮い起こすカンフルとなって世界の歪みを見抜く知の扉を開く。
 
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夕暮れの寂しい図書館の片隅で、
安房直子さんの世界に触れた記憶。
 
 
帰り道、ひとりで賑やかな街を歩く。
賑やかさが、せんなく、世界の終わりのように、寂しい。
薄暗い、春の夕闇。祭りの歌声の、うら寂しさ。
 
出会ったお話。忘れていたお話は、白樺の木でできたテーブルのお話だった。
滅んだ過去の森からの、うつくしい白樺の精霊の思いを託した、便り。その祈り。滅んだものたちへの思い。
 
 
その物語の余韻を抱えて歩いていると、膨大な世界すべてのデータが、あらゆる時空に偏在しているということに、気付く。今在るものの実体が、滅んだものたちすべての倍音を響かせた連続体であるという姿に気付く。そして、己もまたそれらすべてと繋がった連続体であるということに。
 
感情を伴った、すべての私と私を越えた歴史のセグメントが、インテグレードされたものとしての「現在」。
すべての時間を凝縮したハードディスクを抱えて、私は歩いている。
 
そうして、そのとき、このうえなく柔らかな甘露のように、心を甘く満たす、音楽が流れる。
 
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…誰にも頼れない、日曜の夜なんかの、少し苦しい気持ちのとき、安房直子さんは、ほんとうに効くのだ。
 
お話全部でなくても、ほんの数ページ、ほんの少しの言葉を読むだけで、ふうっと楽になれる、この不思議。ページから顔を上げた時、世界の色が変わっている。
 
変容。
 
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よい絵本というのは、子供の心には、今後の人生を通して、育ち行く種を、大人の心には、より個的な過去の重さを含んだ深い感情を、与えてくれるのではないかと思う。