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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

人気の「癒し系ファンタジー」ライトノベルを読んでみる。

どうしても、好き、にはなれない。
 
悪くないと思うしよくできていて深みがないとはいえないし素敵な情景で、洗練されたプロット展開、扱われるモチーフも魅力的、「いい話」だし。
 
さびれた商店街とかノスタルジー、都会で仕事と恋愛に躓き傷ついた主人公が故郷やノスタルジーの中で、ミステリアスな男性と出会い周囲の人生模様にともに関わってゆく、文句なくいい設定。若い女性に鉄板。
 
ほんのり優しく、ファンタジックで癒されるとかかのんびりとかの評判どおりで、なんだか心惹かれるツボ要素ばかりのはずなのに、どうしても、ツルツルした浅い違和感。「消費される癒し」。よく考えなくてはいけないと思う。きっとこれがライトノベルライトノベルである所以であると思う。この違和感が。
 
そうだ、賢しいのだ。
「こんなふうに、不思議でもなんでもないことも、感じ方ひとつで謎めいたことになるんだよ。」
 
だって?
こんなふうに正答がすでに一つしかない、封じられた賢しい物語。
 
説教されることじゃない。解説されることじゃない。ペーパーテストの解答のように決めてもらうことではない。
 
なぜそんな風に合理の側にいる人間に「去勢されたわからなさ」のその死骸を解釈、説明をしてみせるのだ。
 
凌辱である。
 
これがわかってるけどこっちもあるんだよ、ということを言いたいのなら超越の語り手目線でプロット説明しちゃダメだ。それは批評の担当だ。解答の用意された作品の浅薄なつまらなさ。物語の語り手は「わたしはこれが言いたいの」と説明することなく物語を語るべきなのだ。 
 
そうだ、設定の「いかにも」「作られた自然」感がすごいのだ。
金科玉条の型通りの愛や悲しみ。愛、と言ったとたん、悲しみ、と言ったとたん、それの深みがなくなってしまう。真理、と言葉にしたとたん真理でなくなってしまうように。大安売りすぎるのだ。
 
ああそうだ。
私は「ハートウォーミング」というコピーで売り出されている映画だのドラマだの小説だのが、大抵ものすごく苦手なのだ。イヤすごく好きなのもあったりするんだけど、それはそれ相応の非常なる個性、優れたエンタテイメントの力、あるいは文学性を持っている。付加される条件がある。
 
そもそも、疑問を呈し疑い否定し、そうしてそれでも最後に残る、そうして初めて得られるパンドラの箱の底の希望のようなかたちでのキレイゴト、愛や悲しみ。そんな己の中に生きる深みを持つ真理を掴み取るために文学は、物語はあるべきなのだ。
 
読者を軽んじた作品は好きじゃない。