酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ごきげんだぜ夜中のハイロウズ

作者とテクストは別物だと思っている。

音楽家とその音楽は別物だ。

だから作家とその作品、歌とその歌を拵えて歌った人を混同してファンになってその情熱がその人間に対するものへと投影、仮託されている、疑似恋愛のような形になっているありがちな現象には常々疑問を感じている。

生身の人間としてのその作者と作品を創り出した作者は別物である。

つまり、私は宮澤賢治夏目漱石という作者の描き出した作品に心酔し感動し恋をする。だがそのとき宮澤賢治夏目漱石ペンネームに仮託された人格、テクストの発生する現場の純粋な思想、或いは祈りそのものとしての一つの人格的なものに投影、仮定された論理総体としての賢治と漱石である。限りなく生身の彼らに寄り添った、そこから抽出された「モノ(モノノケ、のモノね。魂。)」。(漱石はまあもともとペンネームであるんだが。)だから、実際の彼らがもし身近に存在したとしたら、やなやつだな、って思うことも多いと思う。もしかして嫌いかもしれない。もちろんものすごい尊敬する先生にはなると思うけど。

だから、そういうことで、感動する、泣いちゃうほど大好きな歌はたくさんあるけど、それを作り上げ歌いだすアーティストは、人間としてではなくアーティストとして歌の中にだけ存在しているのであり、生身の彼らとは決然と区別すべきであると思っている。その生身の彼らから発されるピュアな感情、理論、祈りに恭順するのだ。人間としての彼らに恭順するのではない。

だから、だからね、タレントが結婚するから嫌いになるとか、そういう混同と倒錯ってなんかものすごく陥りがちな、なんかの諸悪の根源のような気がするんだな。

これじゃあよくわかんないね。

いつかもっときちんと言葉にしないといけない。

アラヒトガミとか独裁者とか、そういうのに通じてくるような気がしてるんである。人間とその考えは決然と区別すべきなのではないかと。

ひどい便秘で「悪魔は肛門にいる。」と呟いたという伝説を持つマルティン・ルターがトイレで天啓を受けたとかいう説もすごいリアリティだけど、その思想はその現場のイメージからは離して感じなければならんだろう、やっぱし。

ハイロウズブルーハーツも大好きだが、その知性と感性と音楽に心がふるえちゃったり泣いちゃったりするんだがムーンライダーズやヤナちゃんなんかもそうなんだが、実際のヒロトとか慶一さんとかはきっとあんまり好きじゃない。歌ってるその魂にホレるのであってその人間にホレるのではない。

そのピュアへの「祈り」に、その精髄の部分に共振し狂信するのだ。