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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

土曜日の雨とテロ

土曜の朝。

いきなり寒いし不景気な曇天からしとしとしとしとしとしとしとしと一日降り続く雨予報。

ただでさえ週末は出かけないと危険なのに、お天気人間がこんな土曜日に困った状況とともに部屋に閉じ込められたらココロが腐ってしまう。

寒いとか暗いとか雨とかおなかすくとか痛いとか痒いとかダメである。ほんとダメである。寂しい怖い腹立つとかそういう悪いものが増える。

最近話題になってる「冬季うつ病」とか、ううむ、さもありなん、とぞ思いけり。

寒い暗い陰気な霧のロンドンとか冬は嵐に閉じ込められるアイルランドとかでうつ病とか精神病とか自殺とか文学とかが特化して発達して、太陽の燦燦と降る南の国では陽気なサンバとかあでやかなカーニバルとかが発達するっていうイメージはやっぱりよくわかるのだ。何か過剰なものが、個的な内的な方向に噴出するか、身体性、集団性、外的な方向へと噴出するか。

暗いと寂しい。

…でまあ、一歩間違えてたらもしかして自分が持ててたかもしれない、過去に夢見た、そうして結局持つことのかなわなかった、こんなとき寂しくなくさせてくれるような、ごく普通のあたたかな平和な家庭の風景、そのサザエさんイデアな日常のことなんか考えたりして、ああああ一層いけない。

 

で、朝一番、ニュースはパリでのテロである。

花の都巴里。文化と歴史。標的はサッカー場やライブハウス、レストランなんかだったという。平和と文化の祈り、幸福、倫理への呪詛、蹂躙。無差別殺人。自爆。

歯止めのない狂気である。思いしれ、思いしれ、という問答無用の激しい呪詛、怨詛。

そうだ、空爆はあった。

だけど。見当違いな方向性のルサンチマンがどうしてこんなにもゆがんだかたちでやってくるのか。(親が憎いから子を苦しめてやる。当然の犠牲だ。親を苦しめるためだからいいんだ。自分もそのために犠牲になるんだ。)(オレらの苦しみや美しい正義を知らぬ汚らしい蛮人どもが調子に乗って搾取した結果の腐った贅沢、退廃を謳歌してんじゃねえ!粛清してやる!正してやる!)

怖い。にんげんこわい。強い人はこわい。正義の人は怖い。信じる人は怖い。わからないガイジンは怖い。

きっと人類全体トータルスコアでいえば絶望的に脳足りんなんだろう。胸の中があじきないじゃりじゃりした心持ちになってもう何にも考えたくも見たくもない。

どんなにどう考えてもわからない。大切なものを見失ってるとしか思えない。想像力と知性の欠如。感情の歪みと麻痺。正義への陶酔。ヒロイズム。美学。いたましい安っぽさ。そうしてそれを利用するひとたち。欲望のあんまりにもかなしいあさましさ。

パリへのシンパシーを表明し世界中の塔でトリコロールが祈りと哀しみと怒りとともに点灯しているあの胸の痛むような映像は、テロリストにとってはヒロイズムや陶酔、快楽にしか感じられない風景なんだろか。怖がられ嫌がられることがそんなに嬉しいんだろか。正義の試練とか思うんだろか。本当にわからない。正義を信じる人はわからない。

でもわからない。辛い思いをして虐げられ怒りのかたまりになっているとき、唯一正しく美しいと信じるものが与えられ、自分の価値と生きている価値が認められるなら、一旦そこに魂が救われると信じてしまったら、ひとたび「メインラインにヒット(アメリカの俗語で、静脈注射を打つ、つまりアディクト、ジャンキーにしてしまう、という意味なんだって。)」されてしまったら。

もう、それのためにならもうほかのことは意味がないものとなり、ほかのもののことは考えられらなくなるのは当然なのかもしれない。

宗教も恋愛も組織への忠誠もアーティストや作家のファンになるのも原理は同じだ。

キリスト教信者の話によると、生まれた時からすりこまれた、っていうんじゃなくて後天的に自発的に信者になる人には、決まってそれぞれに「救いの瞬間」っていうのがあるらしい。仏教の悟りの瞬間のように、迷いの中でのお説教や祈りの積み重なりが、ある日ある瞬間、突然「わかってしまう」瞬間があるのだという。ヘレン・ケラーの「WATER!」みたいなものかもしれない。光にあふれた境地にひらかれる瞬間、恍惚となって魂が救われてしまう瞬間。

それは「永遠の瞬間」の時空である。真理。
それは「魂の平安。心の平安」と呼ばれ、そのときからそのひとの心の奥にはセイフティ・ネットとして形成されるものとなる。信仰の発生である。心の奥底にいつもその風景が絶対の神と真理に通じるものとして大切に守られているならば、外界、表層の出来事の理不尽や悲しみや苦しみ、己の醜さ、心の波立ちに支配されきることはなくなる。他のすべての抑圧から解放されることができるようになる。

本来、その「心の平安」は幼いころ絶対的に与えられた母の愛、家庭内での幸福な思い出として健康的に育まれた心身には自然に備わってゆくことのできるものだ。だが恵まれない環境や恵まれない境遇におかれたとき、その精神の基盤は形成されず、或いは失われ、たやすく壊れてしまうようになる。

人はその代替物を何かに求める。

そのときその心に決定的な「救いの瞬間」をもたらしてしまったもの、それが最初の「メインラインへのヒット」である。静脈に一発キメられてしまったらもうだめだ。既にアディクト、信者である。それがその人のレーゾンデートゥルとなる。それに則してしかもう生きられない。

人を狂わすもの。恋愛、宗教、芸術、正義。
それは、人を救うもの。人を滅ぼすもの。

 己の魂を救うもの、それは魂そのものとなり、ひいては「己の存在以上のもの」として定義されるものとなる。ひれ伏す、忠誠を誓う、その尊い概念そのものと一体となる恍惚。「自分より大切なもの」となる。何かの逆転がおこっている。己のエゴのためだったはずが己をささげるためのものとなっている。そのためになら他の犠牲はどんな悲劇も厭わない。単に尊いだけだ。聖戦。自爆。

価値観の逆転、自分より大切なものを奉じる心のそのピュアさ、感動の激しさはうつくしく、そしてほんの紙一重で、いたましい。ものすごくまぶしくかっこいい、そして紙一重で、ひたすらおろかしくかなしい。

愛。

紙一重の危険。この原理が一歩間違ったところで利用されると、個人の中で、物事の価値の基準は集団的ヒステリーにも似た意識の高揚の中でどこか根本的なところが見失われずれてゆき、ねじれて逆転してゆく。激烈な悲劇を生む害毒となる。

 

このテロ、実行犯はみんな若者だという。  
このコラムに、実行犯の遺書から自爆殉教者に仕立て上げられる人物像が描かれている。…悲劇である。

 

…つまり、だからね、寒いとか暗いとか雨とかおなかすくとか痛いとか痒いとかが何しろ根本的な諸悪の根源なんだと思うんだよ。

それは、理不尽。愛されていないという感覚。誰からも、世界全体から。大切にされてない、愛されていない。踏みつけにされ搾取されている不公平。寂しみや痛み、欠如は、不幸や悲しみは、怒りと攻撃性でよろわれる。そこにつけこんでゆくものがいる。

誰も不幸にしてはいけない。不幸は不幸を呼び暴力と犯罪を狂気と狂信を引き起こす。怨恨の連鎖を引き起こす。小さな大切な身の回りで、大きな地球規模で。

大きな能力を持つ者ほど、大きな不幸を呼び起こすことになる。ピュアな心と強い意志、有能さ。優れた資質がすべて全力を挙げて残忍さ悲惨さをまきおこす。彼が不幸でなければその資質は限りない人類の発展のために素晴らしい効果をもたらしただろうに。

オウムの悲劇しかり、テロしかり。

そして何か大きな歪みを正すことを、誰かが嫌がっている、という気がする。盲目的に。無意識的に。

よくわからない。

ほんのちいさなひとつひとつの無神経から、想像力の欠如から来てるんじゃないかと思う。世の中不必要に複雑になりすぎている。