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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

胃腸病院と世界文学

荻窪の駅近くの胃腸クリニックであった。

すごく変な医者だった。

名前を呼ばれ、待合室から入ったときに彼が机の書類から目を上げた第一印象。

まだ若いようなんだが、姿勢が悪くて、吹き出物だらけの不健康を絵にかいたような顔色をしていて、あまりにも窓から美しく明るく差し込むおてんとうさまの光に申し訳ないようなご面相に見えた。きっと胃腸肝臓腎臓その他の調子でも悪いんだろう、商売のためにもも少しご自分の内臓に注意したほうがいんではないかと思ったことを覚えている。

 

基本的に病院は苦手なんだが、何しろ毎朝しくしくと胃が痛むしおなかがすけば痛むし食べたらぐったりするしこれではどうにもならんわい、と看板だけ見て駆け込んだ近所の胃腸クリニック。

書きつけられてゆくカルテがやっぱり日本語ではないんだなあ、患者に盗み読みされないためかしらんなどと気にしつつ、なんだかんだ尋ねられるままに症状など話しているうちに何故か彼はご自分が今取り組んでいる論文のテーマについて語り始め、私は大層困惑した。

(病院、ちょうど空いてる時間だったのだな。)

「はあ、はあ。」

とひたすら拝聴するしかなかったのだが。患者ですから。

…で、幾度か通った。

世の中、街の片隅その隅々まで、末端組織である建物のさらに細分化された細胞にあたる各々の部屋の中にはそれぞれ独自のルールをもつ奇妙な細胞世界がひとつずつ。ここは医療の世界。ギョーカイ。

そこでは、今のパソの発達みたいに、高級な最新技術おもちゃみたいな医療機器に夢中になる医者たくさんいるんだな、と実感して思ったり。ああ、こりゃ確かにおもしろいよなあ、医療って絶対正義だし。これじゃあ医療費増大するわけだよなあ、などと思ったり。

うひゃあ内臓見えるよ、でウン千万。

…生命や健康ってどこからどこまで人間が管理するべきなんだろう。果てしなく、幸福と健康は絶対善ではあるんだけど。だけどなぜか今これを人間が管理しようとすると人間同士の関係を無色なかたちで関連付けようとする経済のレヴェルにすべてが還元されてしまう。

「命の尊厳」という言葉がいろんな思惑でぺらぺらなものに穢されてしまうよな気がしたり。面白さを追っかけてしまう、才能におぼれるマッドサイエンティストの行きつく場所、ゆくべき場所や倫理のこと。生命も健康も地獄の沙汰も金次第になってしまうよな気がしたり。世界が複雑に難しくなりすぎる。ブツブツ。

…で、スキャンのための大仰な機械にかけられて自分の内臓の様子見たり胃カメラ飲んだりとかの人生経験を積んだ。確かにこりゃおもしろいや。

病院っていうのはなんだか大層な資金のかかった遊園地だ。ファンタジーワンダーランド。最新設備とか機械とか薬とか嫌いなんだが、いざ覚悟を決めてしまうともう科学の見る夢の魔法世界、科学の力だ鉄腕アトム、この非日常にわくわくしてしまう。(きっと実は好きなんだな。)自分の身体がまな板の上の鯉になって、物体レヴェルへきちんと還元されていく、世界全体へ均質に散らばってゆくような科学の恍惚。

目的を果たすための手段であったはずの機械そのものが目的となってしまう偏愛のかたちとかね、移動の道具であったはずの鉄道がそのものが目的となってしまうとか、なんとかフェチとかね、そういうのもわかる気がするよ。目的とその手段が逆転する瞬間がある。高邁な思想と理想と目的の大義を掲げていればいくらでもその陰で心置きなく本当は別っこの楽しみに耽溺しても免罪される。

そしてだけどやっかいなのは本当にピュアで尊い祈りや思想が穢されながらもそこでもちゃんと生きているってとこなんだ。どにもならん。

死や痛みや苦しみや恐怖、絶望、自分の、そして身近な人の。そのリアルの中に放り込まれたら、自分や大切な人やそしてそうでないひとでも、誰かが命の危機や激しい痛みから救われるのならば、と、やっぱりもうとにかく問答無用になってしまう。

***

大層な検査たくさんして、結局ちいと胃が荒れてるとか弱ってるとかで、癌があるとかいわゆる重大な病気があるわけじゃないってことだったんだけど。

件の医者、あれこれいろいろ言ってたけど結局結論はただ最後のひとこと
「ごはんはおいしく食べましょう。」
だけだったような気もする。

なんかのアレルギーでいきなり顔が腫れあがったときは

「それくらい膨らんでた方がいいよ。」

とか、

「あんたきっとろくなもん食ってないんだろうな。」

とか、いろいろ言われた。実にどう考えてもしみじみと失礼だ。

 

とにかく変な医者だったんである。混んでるときは待たされて閉口するんだけど暇な時間だと何だかんだ結局ながながと彼のお喋り聞かされてたりする。

世界文学の話とか、なんで胃腸病院で聞かされなくちゃいけないんだ。

「イヤ私国文学専攻ですし、日本語と日本的思想でしか考えないし外国人は外国語しゃべって文化も顔も違うからわかんなくて怖いし翻訳読んでもなんか考えが怖いし考えの基盤が違うから、とにかくガイジンだしワカリマセン。」

とかなんとかごにょごにょと率直に無意味な感想を述べたら、

「そんなことないでしょうおんなじ人間なんだから。」
とさらりと言われてしまった、この言葉を私はひどく印象深くおぼえている。


「この医者ってば、なんてイージーなんだ。おんなじ人間ってそんな大雑把なおんなじで簡単にわかりあえるもんか。いわんや言葉が違う歴史が違う。気が遠くなりますがな、それなのにこのイージーさは何。医者とはことほどさようにイージーな人種なのか。胃腸悪そうだし。」

と思ったんだけど。

 考え出すとこれは面白いんだよなあ。

 おんなじ人間だからわかるところがある。おなじ身体のつくりである。生物として共通であると医者は思うのか。

共通項がある。そして言語による分岐点文化による分岐点、個人による分岐点と無限に細分化されてゆく、そのあたりをきちっと押さえてゆく作業というのはそれだけですごく面白いんじゃないか。

だからつまり、イージーでもあるし複雑怪奇でもあるわけで、だからつまり、わかるといってもいいしわからないといってもいい、だからつまり自分がどのレヴェルからわかったつもりになっているかを如何に客観化できるか。その己のスタンス、現在地を把握した地図を脳内に描けるか。

わからなさにぶっつかってそこに拘泥するということ、また違和感、異国情緒を感じる、憧れる、それを味わうということは同国語同文化圏内の文学にとどまることによってはなしえない。だから異文化異国語の人間の目にしか見えない差異による読解、意味世界というのもあるわけで。

まず、そもそも決定的に絶対的に徹底的に違うのだ、わかるはずがないのだ、というところからスタートして、共通項と共有するもの、理解の可能性というその奇跡の発見の驚愕と喜びに、つまり己の中の未知にも同時にたどり着く道筋を私は正統だと思っている。

おんなじ人間だからわかりあえて当然でショ、のイージーさから出発して、わからなさ、違い、そのミステリーのショックを味わってゆく逆のルートもまたアリなんだろうけど、そうすると得てして一発で軽蔑だの無理解だのの破綻に流れ、ただ唯我独尊の絶望と暗い思いの方の投げやりでイージーな結論に陥りやすくなる。

…ような気がする。
イヤだからどっちから行っても同じ結論に至ることはできるしやり方はそれぞれで構わないんだけどね。

 

結論として胃が痛いときは梅干しの黒焼き入れた梅干し湯とミントティーがよろしい。とりあえずあれこれ読んで心に響くものだけ拾ってみるがよろしい。わからなさの森の中に。

やっぱりなるべく病院には行きたくない。