大学4年のとき、引っ越し先を探すひとに頼まれて週末ごとの部屋探しに付き合ったことがある。
おもしろかった。
当時オレは阿佐ヶ谷在住だったんで、彼はその近辺で駅の近い手ごろなワンルームを希望した。不動産屋めぐり。初めての体験にわくわく。いろんな部屋に住むいろんな人々の暮らしを垣間見たり、いろんな未来の想像してみたり。
洒落た出窓のついたロフトにはいのぼってふたりして外を眺め、週末夕方にはここで夕涼みしながら一緒に麦酒飲んだら楽しいんではないかとか、畳いらん、いや畳欲しい、シャワーでいいとか、いや風呂場重要である、ここ非常にステキである、いやこの家賃では、会社の補助6割あるとはいえそれでもキツい、とかなんとか議論したり。
いや別に自分は一緒に暮らすわけでもなんでもなかったんだが、まあママゴトな楽しさでな。
(しかしこのとき、中央線沿線って高いのネ、と、しみじみ生きてくって大変ネということも知ったんであったよ。)
…そのうちのひとつに、何故だかずうっと忘れられなくなった印象の古い部屋がある。阿佐ヶ谷の駅近くの古いアパートだったと思う。
いかにも昭和なボロアパートである。
側頭部にくらりとめまい、昭和フォークソングがメドレーで流れてきてタイムトリップ。「神田川」がくちずさまれる寂れたその情緒。わびしくかんかんと西日のあたる焼けた畳。
地方出身者でスノッブで洒落たワンルームを希望していた彼は即時却下。
…が、何故だろう。その部屋の風景はずうっと私の中で憧れのまま大切にしまわれている。そのころ読んだ村上春樹のあれこれとか「P.S. 元気です、俊平」(柴門ふみ)とか遠藤賢司 のカレーライスとかはっぴいえんどとかなんとかのイメージが記憶の中で全部一緒くたになって、昔夢見た未来、のような時空のねじれた空間を閉じ込めた精神の深奥に秘密の繭として投影され、私の中に残されてしまっている。
胸の痛くなるような、失われた憧れを封じ込めたような風景が、ひとつのその部屋の西日の当たるひとときに示されてその繭の中に封じ込められている。
そこで暮らす未来の夢を見たのだ。
静かに繰り返す、暮らしの小さなひとつひとつを、日々の小さなできごとを小さく小さく喜び、朝が来ることを喜び、四季のめぐりを喜ぶ、かなしみを、喜びを、少しずつ共有してゆく歴史の物語の夢。
それは出口のないタイムポケットの中のように繰り返される閉ざされた空間で、決して誰にも侵されることない過去として、どんな未来にも通じない、どこにも開かれない閉ざされた空間で、けれど繰り返される奇跡のような朝の美しさと四季の移ろいの時空のスパンの振幅を卑怯にも閉じ込めた幻想四次元空間(「銀河鉄道の夜」)、その繭の中。
これらはきっと正しくない。
それでも。
それでも、絶対に誰にも壊せないオレである。きっと墓の中まで持ってってやるんだぜ。