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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

誕生日

ここ数年、いやもっとずっと前から。

毎年、自分の誕生日は決まって、不思議に心身絶不調で、何をやっても裏目裏目、非常に悪い星の下に、という気持ちになってココロががらんとして地下にめり込む日となっていた。朝から晩まで超低空飛行。

お星さまの定めたバイオリズムとかそういう運命なんであろう。

…とかなんとかいう方面はともかくとして。

アレだな、自分の存在がだな、生まれたということがだな、結局今誰にも祝福されてないのだという自覚、そのずっしりとしたリアリティを否応なく実感する日。殆ど身体の痛みともみまごうような、ものすごい激しいがらんどうな暗黒な絶望な気持ちなんだな、それって。

既に人生に失敗したんだ、先に何の希望があるんだ、生きていても仕方がないのだと繰り返し呟き続けるいけない何かが胸の奥にうずくまっている。

 

誰にも祝われない。気にもされない。存在価値なんかない。

子供の頃、家族や友人や、みんな祝いあうものだった。プレゼントもらったりあげたり一大イベント。与えられるのが当然であった。そのほろ苦くほの甘い思い出が今の自分のあじきない寂寥を深める。

今の自分の、家族との関係性による、存在価値のない毒にまみれた己と未来も希望もない立場を痛いほど実感する。それは自業自得である。さらに言えばその自業自得の自覚にもかかわらず、もうそれだからどうしようもないや仕方ないや、と、敢えて虚無と絶望と痛みの中に怠惰に安住する確信犯に決して救いはない。

…おこちゃまじゃないんだから。甘えていい立場でも年齢でもないだろう。それなのにおこちゃまでいるからアカンのだ。

愛情は欲しがるだけではなく与えるときの喜びを、それが己の中からただひたすら湧き出る無限の豊かさを感ずるときの、その奇跡のような発見の驚きと喜びを、その絶対の幸福を本質とする。それは、欲しがりあたえられることと溶け合って差異がなくなる、ひとつのもの、同一なものとなる次元をもつ。

キリスト教の三位一体、父と子と聖霊の三角形が一つの本質、実存としての神、世界のありかたを示すように。

そして実際におこちゃまであった人生の初めのステージにおいて限りなく与えられたものは、人生の基盤となって原風景となって、その人の一生を支える。

 

今年も馬齢を重ねる日。朝から心の底に沈潜していた例のひんやりと冷たい昏いものを感じていた。思った通り何もかもうまくいかない。あったはずのものはでてこない。作業手順は狂いまくる。泣き泣き探し物人生、棚から頭の上にゴツンと物体が落ちてくる。お茶はひっくり返る。体調は悪い。孤独に泣き叫びたくなる。

だがあえてはっぴーばーすでい望むからアカンのだ。自分で自分の誕生を祝ってやろうとか考えるからいかんのだ。あきらめて淡々と無心に雑用片付け日に甘んじようと心を鎮める。窓の外は秋晴れ。美しい優しい金と青ゆらゆら朝の光。

どこか遠い懐かしい街につながってゆくような、明るい空と風と光にみちた朝を眺めていたら、その光が柔らかく浸み込んできて、ふと思いもよらぬような、じいんとあたたかな考えが浮かんできた。

誕生日っていうのは、私が生まれた日で、つまり、母が私を胚胎したときから、身体的な苦痛や不自由、精神的な不安定や不安を抱えながらも、私という未来を夢見ながら、大切に大切に子宮の中に守り育てながら待ち望んでくれたその日なのだ。神からの大切な授かりもの。奇跡のような宝物が私という存在だったのだ。

そのときの母の痛みや喜びのことを考えていて突然ギューと幸福な心持ちになった。激しい痛み、未来への希望、大きな不安。それに見合う存在がただ生きているだけしか価値のない私だった。

感謝というのはこういうことか。

苦労して育ててくれたことへのその苦労へのごめんねな感謝ではなく、母の激しい痛みと純粋な喜びを思い、自分がそのいみじい未来への希望と不安そのものであり、存在ただそのものが大いなる意味であり喜びであったという肯定されていたという不思議さに。その喜びに感謝する。

誕生日を祝うのはその感謝のためか。

「私が母を幸せにしていた」「痛みを与えた」「母は自ら望んでその無償の、無限の愛を選んでくれた」というその事実に。

 

己の存在は己のせいではない。気が付いたとき、それは既になされている。原罪を背負わされ存在の牢獄の中にいる。負債の連鎖の中にある。生きているとはそういうことだ。

…だがそれはもしかして、己の存在の枠組みの始まり、その肉体の誕生のとき、その母の喜びと不安、また死に値する苦しみ、陣痛によって既に贖われているのかもしれない。許されている。愛されている。存在はただそれだけで意味と喜びと未来と希望である。

そのはじまりの絶対の瞬間さえ存在の根幹のところで知っているならば、一生を通じ、さらに許しや愛を求める必要はほんとうは何一つないのだ。既に贖われている。それを確かめるため感謝し喜ぶために残りの一生はある。

キリストが十字架にかけられたその業苦によってすべての人間の罪が既に贖われているという原理は、そのような論理構造に基づくものではないかなどと考える。

 

私を生んだ者よ、私の誕生によって、存在そのものによって幸せになってくれてありがとう。喜んでくれてありがとう。世界が意味に満ちる。意味を満たす者であった自分のことを考えるとそのときの「意味」がイマ、ココによみがえって現在する。

感謝というのは絶対の幸福であると時折しみじみ思う。

その刹那。永遠につながるその刹那の爆発的な喜び、意識がアイデンティティの枠から逃れ霧散してしまうような眩い恍惚、いちめんの輝きにみたされた空間、絶対に侵されることのない至福につながる。

 

…電話してきて、出たらいきなり「こんぐらちゅれーしょ~ん」とかおどけるのが我が母である。生まれた時の事あれこれ聞いてみた。今度母子手帳みせてあげる、って言われた。ボロボロだけどって。

その「標本」はまた、こんな誕生の日のリアリティを感じさせてくれるだろうか。