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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

鍋とぱんつ

 駅までのそのそ歩いていたら、水玉模様のぴちぴちなずぼんをはいた自転車の女の子3人に追い越された。流行ってるのか?水玉ずぼん。

ずぼんである。
ああまでぴちぴちだとパンツ、とよんでもいい。

だが自分、あの二本足になった衣類のことをパンツと呼ぶのには抵抗がある。ずぼんというのが好きである。トラウザー。

ずぼんはずぼんだ。パンツとは鬼のぱんつだ。下着である。グンゼのぱんつ。ショーツとかトランクスとかの類である。サブリナ〜とかカーゴ〜の如く上に何か分類するための枕詞的なる語がつくならいいんだが。

「鍋が食べたい」、と聞くと、あの調理用の陶器をガリガリやるのか、と突っ込みたくなるが、キムチ鍋が、とか豆乳鍋が、というなら何となく許せる、というのと同様の感覚である。

 

…ということで、この季節になると毎年毎日のように考えてしまう。鍋について。

我が国の食文化において、秋冬の鍋は季節の風物詩的なる役割を担っている。老いも若きも猫も杓子も、家庭でも料理屋でも、鍋、鍋、鍋。

確かに優れた食文化だ。原始的料理法にして栄養バランスに優れ、味の好み、経済状態、食の流行に合わせて自在に具材を変幻させるフレキシビリティ。トマト鍋だのキムチ鍋だの異文化をも貪欲に吸収してゆくその柔軟性、これぞザ・日本文化。大勢で囲むあたたかさ、コミュニケーション、精神文化においても重要な役割を担う。

 

だがしかし。

ツイッターとかで話題になってくると気になってしかたがない。

「鍋を食べた。」

…あきらかに奇食である。毒食わば皿まで、という言葉も同じように非常に気になるんだが、よしんば調理器具や食器をかみ砕く強靭なあごや歯の持ち主だとしても、絶対に口の中が傷だらけ血だらけになるし食道も胃袋も傷だらけになって死んでしまう。栄養だってないだろう。

で、だけどやっぱり「石狩鍋を食べた。」とか「牡蠣の土手鍋おいしいね。」とかだと大丈夫なんである。

それは、石狩鍋、という調理器具としての鍋がないから、というのもあるけど、それだけじゃなくてさ。ぱんつでも鍋でも、そういうことじゃなくてさ。

鍋はその中身を示す形容詞的な役割をもつ語がくっついて組み合わさって総体としての複合語となるために調理器具としての本体ではなく中身の方にその意味の焦点、重点が移り、パンツの場合は型を示す語がつくために下着のイメージを離れ、ズボンの型をまるごとイメージさせるからでなんである。複合した2つの名詞ではなく既にひとかたまりの名詞な把握をするからである。

 

今年も皆が鍋鍋と騒ぎ出す。
そして私はこの一連の思考を毎日のように繰り返さねばならぬことになる。

 

牡蠣の土手鍋食べたい。