酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「ちいさなおはなしやさんのおはなし」竹下文子

ちいさなおはなしやさんのおはなし (おはなしだいすき)

ちいさなおはなしやさんのおはなし (おはなしだいすき)

イヤ実に素敵な本である。
絵がまたとびきり可愛いのだ。

おはなしを売って暮らしている、ちいさなおはなしやさんのおはなし。物語の物語、という重構造のほのかな眩暈を秘めながら、あくまでもひたすらあたたかく優しい。

おはなしが必要になると、おはなしやさんはおはなしの木のところに行って呪文を唱え、実を落としてもらってカゴいっぱいに拾い集める。

そのままだと固くて酸っぱいおはなしの実を、大きな鍋で甘く煮る。つきっきりでかきまぜながらとろとろと煮つめるのがおはなしづくり。かきまぜながら魔法の呪文を唱えると、とろりとあまいおいしい不思議なお話のジャムができあがる。

おはなしの瓶を売りながら小さなおうちで猫と二人暮らし。

おはなしは村の人々の必需品で、家々では夕食後、暖炉の前で家族で寛ぎながら一緒におはなしを一口ずつ楽しむ。子供にも、大人にも、それぞれひとさじずつのおはなし。

ひとによって、日によって、おはなしはひとさじ毎にその風味を変える。ふしぎなおはなし、わくわくするおはなし、やさしいおはなし、たのしいおはなし。

(まるでメアリーポピンズの魔法の薬のようだ。眠る前に飲むひとさじのおくすり。同じ壜から匙ですくうのに、ひと匙ごとに味は変わるメアリーの魔法。子供たちには甘いミルクやチョコレート味に、メアリーにはラムパンチの味に。おはなしとは、こころとからだを癒すための、「おくすり」なのかもしれない。)


  ***  ***  ***

ところがあるとき、長雨から洪水になる。木の上に避難していたおはなしやさんとねこが家に戻ると、おはなしの木が倒れてしまっていた。おはなしの木の実がなければおはなしは作れない、売ることもできない。猫のミルクもビスケットも買うことができない。

困ったおはなしやさんは山の上にある別のおはなしの木の話を聞いて、ねこと籠を背負ってさがしにゆく。

おはなしの木の持ち主、山の大男は優しい大男。固くて酸っぱくて食べられないよ、と言いながらいくらでも持って行けという。

かごいっぱいに拾って持ち帰ろうとするが、そうするとねこを連れて帰れない。猫を気に入った大男のところにあずけてとりあえず一旦おうちに帰って新しいお話をつくろうとする。

ところが、できないのだ。いつもと同じ鍋に同じ材料、同じ呪文でコトコトと煮詰めても、お話の実は固く酸っぱいまま。甘くおいしく柔らかくなってくれない。


  ***  ***  ***

…ねこがいないせいなのだ。

いつもと違うのは、ねこが隣でごろごろ喉を鳴らしていない、ということだけだった。

ねこはなあんにもお手伝いなんかしないで、おはなしやさんの仕事してる横で眠ったりあくびをしたり、ミルクやビスケットをねだったりするだけだったのに。

ねこはただそこにいるだけで、大切な魔法の助けになっていたんである。

大慌てで大男のところに戻り、おはなしやさんは猫を気に入って返したがらない大男に、代わりのいいものをあげることを約束して何にもしないねこを連れ帰る。


  ***  ***  ***

そうしたらちゃんといつも通り。

無事おいしいおはなしをたくさんこしらえたおはなしやさんは、大男のところに約束のおはなしを届けに行く。おはなしやさんのおはなしコンポートを大変気に入った大男は、これからずっとおはなしの実を届けてくれることを約束してくれる。

そうして、また以前と同じ、ねことおはなしやさん、村の人々の幸せな日々がはじまる。

以前と違うのは、毎週金曜日、大男がおはなしの実をリヤカーいっぱいに運んできてくれるようになったこと。一晩泊まって、おはなしやさんのおうちの用事や、土曜日のおはなし売りを手伝ってくれるようになったこと。

ねこはごろごろ喉を鳴らし、鍋をかき回すおはなしやさんの隣で居眠り、ミルクをねだる。


  ***  ***  ***

おはなしって、一体なんなんだろうな、と考える。

原料のおはなしの実は、自然のまま、意味なんかない、カオスのままの現実現象。(固くてすっぱくて味なんかない。)そこからおはなしを拵えだすおはなしやさんは、人間の思い、優しさ、考え、さまざまのこころのフィルターを通してカオスからコスモスを見出し理解しこころに響かせる。論理をつくりだす仕事人。

ストーリーテラー、小説家が何かの出来事をことばにする過程を、ぐつぐつ煮る魔法と呪文に例えている。

素敵なおはなしは、自然そのままの現象を原料に、秘密の魔法の技術を経てテクストとしてのおいしい瓶詰コンポートにできあがる。そしてそれを受け取るそれぞれの人々の心に適応変化しながら唯一の物語、読書の現場現象として読者そのもの、その心と響きあい、異なる味わいとしてその血肉となるのだ。

そして、このストーリーのキイとなる「なんにもしないねこ」の価値、その重要性のこと。
こんな風な読み解き方をしてみると、これはとても興味深いポイントだ。

ねこは、何として考えることができるだろう?

合理の外。論理の外。はみ出してしまったもの。他者。…対象としての(自然=客体)とそれを受け取る媒体(テクスト、おはなしやさんの仕事)から読者に至る流れの外側にありながら、その現象が成立するために必要不可欠、必需である「何か」。

全体性が物語に読み替えられるとき、必然的に取り落とされてしまうもの、外側に取り落とされてしまうもの。意味には常に意味の外側へのサインが必要なのかもしれない。意味はない、何もしないけれど別の意味体型があるという示唆、存在することの価値そのもの。

体制には必ずトリックスターが存在する、というような構図が思い浮かぶんである。
(この作者の竹下文子さんは猫と暮らしていて、とっても愛しているから、というのが、この猫のモチーフ存在の多分直接の理由なんだろうけどね。)

  ***  ***  ***

おはなしの小瓶、今度の土曜日にこのおはなしのなかに入り込んで買いに行きたい、というようなふわりとした心の浮遊感をくれる。

子供の心に、そしてギリギリと草臥れた心持ちになってしまった大人の心に効く「おはなしのまほうのおはなし」ってとこだな、ウン。