酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

富安陽子「ねこじゃら商店/世界一のプレゼント」

やっぱり富安陽子さんはいいなあ。

「ねこじゃら商店/世界一のプレゼント」。偶然その前に読んでいた広嶋玲子「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」も酷似した設定の童話で、ちょっとしたシンクロニシティとなった。

双方とも、特別に招ばれない限り、普通の人間では辿り着けないあやかしの店が舞台だ。野良猫や妖怪のための裏通りにある、古式ゆかしい昭和駄菓子屋の風情。たっぷりと怪しい化け猫的な店主が鎮座し、揃っているのは、夢のような魔法の商品。

廣嶋さんの方の魔法駄菓子屋で扱っているのは、食べるとすいすい泳げるようになる「型ぬき人魚グミ」、猛獣を操れるようになる「猛獣ビスケット」、真夏でも涼しくなっちゃう「ホーンテッドアイス」、室内で鯛焼きが釣れるバケツと釣竿セット「釣り鯛焼き」。そして、無能でもカリスマ性が備わってしまう「カリスマボンボン」、ハンバーグでもコロッケでも、とびきり美味しいいろいろなごはんの実が毎日実る「クッキングツリー」。

ドラえもんの道具みたいに夢ゆめしい楽しい魔法のお菓子だけど、それらアイテムには必ず落とし穴となる注意書きがある。ストーリーとしては、その落とし穴が人間ドラマとオチを生むアイデア話だ。

この人のこの作品も悪くはないんだけど、いかんせん人生ドラマ辛口すぎる。大体、飴よりも鞭である。

ファンタジックな楽しい魔法の商品を扱ってはいても、因果応報な道徳や倫理臭が「罪と罰」的で、ちょっとだけ鼻につくのだ。

妹をいじめた少年は猛獣の扱いに失敗して妹に復讐され、傲慢で利己的な怠け者の美容師は、カリスマボンボンの悪用で、不相応な天国から自業自得の破滅の底へと突き落とされる。そこには救いや赦し、あたたかな眼差しがない。ストーリーの切れ味の知的な鋭さが目立つ。

そしてアイテムはあくまでも人間中心の論理を持った夢、魔法である。つまり、魔法の性質は、あくまでも人間ドラマを描くための「小道具」に過ぎない。大人向けの小洒落たエスプリ短編的。

…同じファンタジーでも、どうせなら、主人公たちが冒険と試練を重ねて成長してゆくような、深みのある重い長編の方がこの人のでは好きだな、なんて思った。

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今回、酷似したこの二つを比べてしみじみと納得した。

やっぱり富安陽子さんの持ち味は類まれなものだ。

自然のほのかな恐怖、深さや不条理をまっすぐについていながら、味わいのある妙に人間臭い妖怪たちのキャラクター、優しいユーモアや明るさ、日常性の安心にふっくりと包まれる読後感の温もりの独自性は、他には類を見ないものなのだ。

そして大切なのは、魔法の質が全く違う、ということ。

ここに存在しているものは、いわば世界という存在の奇跡。無限の不思議や思いがけない広さ、深さ、ひとつひとつが新鮮な驚きにみちた語源そのままの「ファンタジー」を驚き喜ぶ感覚、その心のありかただ。

生きることそのもののワクワク、驚くこと喜ぶことの新鮮さを思い出させてくれるそのエネルギイそのもののことだ。

「ねこじゃら商店」シリーズはこの作者の中では必ずしも好きなものではないけど、そうして、読み始めは「アララ、楽しい魔法アイテムアイデアの勝った無難路線だな。」なんて気持ちだったけど、最後のクリスマスの話で人間の心のファンタジーを捕らえた店主の心憎い優しさにグっときた。

どの魔法アイテムも、うんとファンタジックで楽しいのはもちろんだが、その力には根源、根拠がある。例えばハリーポッターや前述の駄菓子屋グッズのような、社会生活の中での都合の良い便利グッズ、というのとは性質が違う。

ドラえもんが四次元ポケットから取り出す、人間が人間の都合だけのために、倫理の無い科学の力でつくりだす欲望実現への夢とは違うのだ。

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竜神とくだらない喧嘩したお稲荷さまが氏子に見栄を張るために「雨」を買いにきたり、さえない青年が町一番のお金持ち美人のお嬢さんへの贈り物を欲しがったり。

山の不思議な薬草売りに化けた古だぬきと店主化け猫白菊丸との不思議アイテム満載の化かしあい。

サンタクロースまでが、忘れてしまったおばあさんの歌ってくれた歌を望んだ女の子のためのクリスマスプレゼントを探しにやってくる。

真冬の木枯らしに凍える天狗のための鼻ぶくろは、通気性のよいウールでできたキルティング、中の綿はお日さまの光であたためられた、やわらかな雲のきれはし。(「鼻のてっぺんに春が来たみたいだ!」)

猿の奥さんが親族一同をもてなすための宴会には、一本の木に、木の実や魚、芋栗柿、さまざまの山のご馳走が実ってしまう魔法の木の種。

月の光のような青白い美しいドレスは、月の光の糸で織り上げ、天女たちが縫いあげた空を飛べるようになる白鳥のドレス。(満月の夜に着ると月に引っ張られて戻れなくなる危険。)

かぐや姫が車持皇子にねだったという、つぎつぎと宝石の実る玉の枝。

どんな歌でも気持ちのままに思いのままに作り出すことのできる「歌うたいのギター」、できあがった歌は、透き通ったキューブ状の氷のようなメモリーブロックに閉じ込められ、枕元に置いて寝ると翌朝の光で歌が溶け出し、心の中にながれこんで決して忘れ去られることがなくなる、永遠に自分だけの歌になる。


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ここで魔法とは、むしろ自然や人の心の中にある限りないパワーを引き出すちょっとした仕掛けに過ぎない。これは「思いがけない楽しさ、自然の恵み、物語の発見」という構造に特徴があるものだ。

冬の寒さに対抗するのはただ温度を上げる装置としての化学反応なのではなく、お日さまのあたたかさをためた雲の綿であり、お客さまを喜ばせるご馳走は、計算された化学調味料によるできあいのコンビニ食的な料理ではなく、山や海の幸である。

魔法の喜びには、その根拠、力の由来がある。ひとつひとつに意味、たたみこまれた物語がある。限りない自然からの贈与、その恵みへや脅威への畏敬の念、驚異がある。センス・オブ・ワンダー

ここで魔法とは、その恵みをちょっとした仕掛けで都合よくうまいこと使いこなすことができるようになるテクニック、そう、ちょっとしたショートカット・或いはメディアという位置づけになる。

そして、特にラストの話、素晴らしいオルゴールのお話だ。

「忘れじのオルゴール」

心の奥にしまいこんで記憶のひだに隠れて眠っている歌を探し出して共鳴し、奏でてくれるオルゴール。

女の子の忘れてしまった歌は、幼い頃亡くなったおばあさんがいつも歌ってくれていた歌。いやなことやかなしいことがあったときも、おばあちゃんに抱かれてその歌を歌ってもらうと、いつも幸せになれた、おばあちゃんの魔法の歌。その幸せだった時空まるごとを瞬時に心に蘇らせてくれるオルゴールなのだ。

オルゴールの持つ魔法の力、マジックとは、幸福、音楽をそれがもたらしてくれる製造機なのではない。

もともと心の中にあるもの、奥底に見失われて死あったその宝物を、パワーの源泉を、そっと解放してくれるメディアであるということに他ならない。

そうだ、そして、お話がまたイイ。

サンタさん自身も欲しがったこの商品を、買える品物はひとつだけというのが店のルールですから、と冷たく断っておいてから、白菊丸は自分からのクリスマスプレゼントとしてさりげなく二つ渡してしまうのだ。

この定型とはいえツボにはまるあたたかい顛末。

ということで、読者は、本を閉じ、冷えて乾いて、ささくれてしぼんでいた心でも、ふっくりとやわらかくあたたかく再生されていることに気付くことになるんである。


ふしぎ駄菓子屋 銭天堂

ふしぎ駄菓子屋 銭天堂

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さて、この二つを読み比べて考えたこと。

最近の子供向けの魔法道具物語は、いや、ブームのいわゆるRPGゲーム的ファンタジーは、このドラえもん論理の要素から多く成り立っている。利用できるアイテム、純粋な道具や武器、手下としての魔法。「こんなこといいな、できたらいいな、〜みんなみんなみんな叶えてくれる不思議なポッケでかなえてくれる♪」

これは、とどのつまりは科学を発生させ発展させてきた近代西洋文明的な人間中心の夢の論理だ。この論理は例えば「ハリーポッター」シリーズなどにも如実に現れている。

魔法の力はそこでは科学と同根、つまり、その力、ダイナミクスの母体としての世界、自然、神からの贈与という何等かの性質をもった由来を剥奪されている。それはただ透明な力そのものであり、そこに感謝すべき要因や独自性、必然性や倫理はない。力、受ける恩恵への畏敬がないのである。「このアイテム、この薬でこの呪文を唱えると、現象としてこういうことが起こる。」論理として成り立つ「ルールを持った不思議」。その「知」への態度は、スタンスとしては、ただ利己的に合理的に利用すべき科学と何ら変わるところはない。哲学や宗教を離れた近代西欧からの人間経済中心主義文化。

ただ、便利だから、おもしろいから。それ自体は自然だし、悪くない。だが、それがシステムとしてあんまり大がかりなものとなると。

世界の、自然の、「何かおおきなもの」に対する全体のバランス感覚や倫理のこと、ほんの小さな声、小さな心のひっかかり。「これでいいのかな、ちょっと変じゃないかな。」

…それら、とても見えにくいものは、一度ちょっと、の気持ちで見逃され、どんどんどんどん見えなくなって、「ないもの」になってしまうんではないかと思う。大きな流れ、力にどんどん流されてしまって、気付いた時にはもうにっちもさっちもいかない。

楽しさってもともとなんだったんだろうと問い返すことすらできなくなってしまう。

自然や神や感覚の外にあるものとバランスをとって生きるための知恵としての物語、宗教的な畏敬の念や異界に関する言い伝え。

モノが、道具が、喜びを生む物理的なアイテムが、それぞれそのいちいち自然と人々の連携、営みの歴史とネットワーク、そのものの透明な現象、力なのではなく、本来のメディアとしての性質、すなわち物語をもつことを忘れてしまったら。

何か、大切な、根源的な本来の「力」その源泉が見失われてしまう。どんどんと、ひたすらより強い刺激を求め、肝心の、刺激を感じ取る感受性の方を摩耗させてしまう。

喜びという感覚そのものが、本来、閉ざされた利己的なものではなく、何らかの存在の奇跡や不思議の感覚を持つ贈与であることへの興奮と感謝と同一のものであり、それが正しくそのような姿であるとき、世界のすべては限りない豊かさや奇跡と魔法の物語に彩られるはずなのに。

そうだ、赤ん坊の頃、子供の頃、世界はもともとそのようなものではなかったか?

新鮮な驚き、物語の豊かさを湛えた、危険や恩寵をもすべて湛えた、生命の力の泉。

それらの多様性が、近視眼的な合理的科学的な単一の人間中心主義物語の唯一神によって均質な世界の外に押し出されてしまったら…

結果としては、ひとびとの小さな心の結びつきも、地球全体、社会全体のバランスも崩れ破壊され、原発事故は起こり、環境は破壊され、「もっと悪いこと」悲劇や災難や暮らしにくい世界、人間同士の敵対や恨みや憎しみや。そんな悪いものがゴンゴン増えていくんじゃないかな、と、そんなふうに思う。

デリケートで小さな感覚なのだ。

それは、単純な優しさでもいいし、例えば「不思議」に対する姿勢、考え方、妖怪ワールドでもいいわけだ。自然への親しみと畏敬の念の双方をそなえた具象化、ファンタジー。利用するためだけでも、怖いだけではない、親しみや可笑しみ、人間臭さという性格をそこに付与することは、人間社会が自然の中で上手にバランスをとって暮らしてゆく知恵、なのではなかったか。

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何か考えようとするとき、私はよく村上春樹が言っていたこの言葉を思いだす。

「大切なことは小さな声で語られる。」

忘れそうなこと、ちょっとした引っ掛かり、一生懸命感覚を研ぎ澄ませておかなければ大きな声に消されてしまう、心の奥の小さな小さな声。

すべては怖いことにならないために。
忘れそうなこと、ちょっとした引っ掛かり、一生懸命感覚を研ぎ澄ませておかなければ大きな声に消されてしまう、心の奥の小さな小さな声。