酔生夢死DAYS

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「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」村上春樹

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

前作「1Q84」。社会と歴史が異界要素を孕みながら複雑に絡み合い、ダイナミックに広がってゆく動きをもって構成された壮大な世界観の物語の次にやってきたのは、それとは対照的なこの作品だった。ひたすら多崎つくる個人の心の内部に小さく深く沈潜してゆく「小さな物語」。

徹底された小さな個体性と具体性は、だがしかし突き抜けた広大な普遍へと繋がってゆく。ミクロからマクロへの反転のように。


1.ケミストリイ

大学1年の夏、多崎つくるはそれまで心の支えとしてきた高校時代の親友5人の共同体から突然排除される。
理由を知らされることもなく、今まで通じ合っていた心が前触れもなく閉ざされ存在を拒絶された、という驚愕。

それは彼にとっては、むしろ既に降って湧いた「天災」のような意味合いを帯びた出来事であったとして語られている。

…奇跡的な輝きに満ちた、五人組のかけがえのない青春のその幸福な時空を、彼は「ケミストリイ」と呼んだ。

微妙なあらゆる要素が一定の条件のもとに揃って初めて成立する、奇跡としての唯一無二の関係性、その青春時代という現象。


人生を一変させてしまった、その幸福な王国からの理不尽な拒絶と排除、その大きな亀裂を経験し、それまでの少年としての自分を葬ったまま16年を生きてきた多崎つくる。

「自分はまた知らぬうちに人を失望させる、唐突に切り落とされる。」

これは、彼が常にこのような恐怖を抱え、人と深く付き合うことができず孤独に生きてきた原因となったその事件を掘り起こす物語だ。

そして、村上作品に必ずと言っていいほど登場するテーマとなる音楽は、ここでは、ル・マル・デュ・ペイ。
Le Mal du pays。故郷への病、ホームシックという名の曲。

http://yuma-z.com/blog/2013/04/colorless_movie_music_book_drink/

http://ameblo.jp/croquis-crisis/entry-11511566815.html

還りたい、還るべき、場所、時空。
つくるの記憶の中でシロがこの曲を弾くピアノの風景が幾度となく繰り返される。

音楽と意味のあわいを繋ぐように、「風景ただそのものとして」、つくるの脳裏に幾度も幾度もあらわれるこの時空。曲名としての意味、シロの心、つくるがその風景に抱く心。全ての意味の地層が重層し、つくるの脳裏にひとつの美しく懐かしい情景として焦点を結ぶ。交響曲の中で繰り返し現れ出でる第一主題のように、作品全体の中でこのシーンは「ただそのものとしての価値」の象徴のように、優しく美しく甘く痛ましく、繰り返し奏でられる。



「ケミストリー」。その不思議な化合物としての僥倖、奇跡、運命。かけがえのなさについて考える。五人のメンバーの誰が欠けてもあり得なかった、完璧な青春、完璧な人間関係、完璧な幸福、ひとときの。

それは、至福であるが故の、その喪失の耐え難い「病」だ。


2.巡礼

尊敬しあえる友人と心を通わせ、幸福に過ごしたつくるの高校時代。だが、ゆるやかに形を変えながらも永遠に続くかと思われていた奇跡の時空は、唐突で残酷なやりかたで、終わりを告げた。それぞれの人生に深い亀裂と断層を残して。

奇跡的なケミストリイによって成立し、神に祝福された特別の時空は、その輝きの強さの分だけ、喪失の痛みも強烈なものとなる。聖なる空間は穢され荒ぶる悪魔としての存在へと堕し、人生と世界を呪詛する荒ぶる神となって多崎つくるの人生を内側から蝕む洞を精神の中枢に残した。

その歪んだ痛みのかたちのまま封印されていた禁忌をあるべき姿へと修正し、新しい未来へと向かうべき「正しい過去」とする「オトナの論理」。それがこの物語の目指す動きである。

それは、過去を振り返り、再度その時間を違う視点を持って辿りなおし検証し、現在に向かって再構築する巡礼というプロセスを経て初めて成立するものだった。



この旅は、多崎つくるが、人間としてすべてを分かち合いたいと願うようになった恋愛対象の女性 沙羅に出会い、彼女に心の隠蔽された傷口を見ぬかれ指摘され、見直しと再生を促されることから始まる。

過去を追い、故郷から友人たちの足跡を辿り、遠く外国まで及んだ彼の時空を越えた「巡礼の旅。」だ。



「巡礼=遡り、隠されていた過ちを明るみに出し、赦す(赦すという行為による過去の呪縛からの解放)」というひとつの構図である。辿り直し、ひとつひとつを祀る、赦してゆく。

ひとつひとつのできごとに、新しい解釈の光を当て、肯定と運命の響きを加えてゆく。


ひとはあらゆる無限の可能性を全て孕んで生まれ、けれどもただひとつの人生を歩む。(他のありえた可能性をすべて切り捨てて。)

受け入れること。あらゆる切り捨てられた可能性を丁寧にとりあげては赦し、祀り、葬り、あらゆる価値基準から成る相対的なその価値、意義、評価をかなぐり捨てる。ただただひとつの現実、おこってしまったひとつの人生を、切り捨てられたその可能性への思いをもまるごと含めた形での包括的な肯定、意志と超越の響きを倍音として響かせるような唯一の「ただそのもの」の肯定。

(くだらない、と見限るようでいて、最終的にはその限られたひとつの世界と人生まるごとの価値をそのまま肯定してみせる。これは、灰田父の会ったジャズ・ピアニストのエピソードに示された「人生、世界」に対する一つの思想である。)

己が失われることによって、決して否定できない「そのときだけの絶対性と肯定」を得ることになるという逆説がこの謎めいたピアニストのエピソードには提示されている。それは、近い死の約束によって未来の可能性を失うこと、換言すれば個としての未来や可能性や物語や希望に封印をかけられることによって得られる自己意識を超えた至高の能力、体験という構造の設定である。

逆に言えばそれは、現在を何かの目的のための道程としない、出来あいの物語の価値観に絡め取られた手段として穢すことのない「現在ただそのものの肯定」のための「功利的な」封印、個にありながら個を封印しその外側の絶対性に繋がろうとする方法論であるとも言えるのではないか。

そして爆発的な芸術の実現能力はここに実現するものとされているのである。



この、何らかの封印、犠牲の上に成り立つ構造における至高体験は、どこか多崎つくるの奇跡の高校時代、彼にとっての失われた楽園としての超越時空の位置付けに共通している。

だが流れとしては逆だ。

「ケミストリイ」、奇跡的に成立して宙づりにされてしまった幸福の時空。それは、その輝きのあまりの素晴らしさによって、それが頂点であったが故に、寧ろその後の人生を狂わせる一種の封印された呪詛としてメンバーの精神の中に巣食ってしまった。これが灰田父の出会ったピアニストにおける、この人生における死の約束による犠牲にあたる。幸福は残りの人生に封印をかけるという代償を強いたのだ。

穢され、傷だらけの醜い痛々しい姿のまま捨て置かれ土中に埋められて五人の人生を呪詛していたいわば「荒ぶる神」であったその思い出が、多崎つくるの巡礼によって丁寧に掘り起こされ、探り当てられ、なまなましい痛みや感情を柔らかに風化させられ、未来に向けて正しく祀り直されてゆく。


その、あまりの哀しい全肯定のかたち、その切ない甘い痛ましい幸福感。
その現場の時空を遥かに過ぎ、当事者としてのなまなましさの記憶を保ちながらも、オトナになっていなければ理解できないことは、やはりあるのだ。長い時間を経なければ、風化されなければ得られなかったその鎮魂と、あたらしい未来への志向。



そしてかけがえのない高校時代、そのあとの人生をさし貫くもの。ノスタルジアの甘さと痛さとかけがえのなさと。未来を拓くための包括的にして意志的な世界構築。


「そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で多崎つくるは理解した。人と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。」

「 痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。p307 」


ここにはまた「1Q84」からの流れと重なるようにして、「赦し」のテーマが色濃く流れている。

巡礼の旅とは、ここではすなわちひたすら赦してゆく過程を描く物語なのだ。

ここに、春樹自身のさまざまの経歴へのプレテクストが仕込まれていることも、詳しい研究者にはたまらない魅力ではあるだろう。若い時の作品の中にあっては、ただ受け入れがたいもの、価値観の違うもの、害のあるもの、として切り落としていたタイプの人間を受け入れ赦してゆく(俗物としての父的なるものへの赦しの響き等)、というテーマにはひどく共感する。その痛みをもひとりの人間の同じ尊厳をもった痛みとして認め共感し、赦す、というステップ。あえて俗物としてのスタイルをもって生きることを選択する、アカ、そして、アオ。つくるは、ひたすらすべてを赦してゆく。


3.芸術

さて、「1Q84」にあっては「宗教」が担っていたパートを請け負っているのは、ここでは「芸術的なるもの」となっているのではないかと思う。これは漱石にまっすぐ通じてゆくような理論的な「芸術」の位置づけだ。


大学時代にできた唯一の友人「灰田」と、つくるは哲学的な議論を重ねる。

自由なる思考について。自分の肉体から離れた純粋な論理の飛翔。これは漱石の芸術論としての「草枕」を思い出す。「非人情」、解脱、だ。そして、「学理的な定義」という「枠」に対する敬意と憎悪、その二律背反というテーマ。

そしてその二律背反を超えようとするとき、「1Q84」で顕著だったあのテーマ、宗教的な預言者、自由意思の超越というテーマが顕われている。灰田君もつくるのこの二律背反に関する質問には微笑みとともにわからないという答えをよこす。(先の灰田父の出会ったピアニストにおける、個としての死の約束の犠牲の上になりたつ究極の芸術、というのはこのテーマのひとつの具体例だと考えることができるものだ。)





そして、灰田君父の温泉宿エピソード、シチュエーション的にもやはりこれは漱石だ。「草枕」。ここでは画工でなくてミュージッシャン。大学紛争ニュアンスが春樹ブレンド。

シロとクロと灰田くん。モノトーン三人組に共通して繋がっているのも、やはり「1Q84」の要素である。彼らは、夢か現実かわからない超時空におけるそれぞれの持つ世界を交流・交感させる(そしてさらにはそこから子供、なにか次なるものを生み出す、という可能性を孕みながら。)というつくるの性的イメージに登場する。

シロがピアノに、クロが陶芸に、と、芸術、或いは「ものをつくる」「表現する」ことに結びついていた女性であったことは決して単なる偶然の設定ではない。アカやアオ、男性陣がビジネス、人をコントロールする勝ち負けのゲームのような世界に身を投じていったことと、それは対照的な構図を成す。

春樹小説において求められるもの導くもの或いは「他者」の役割は常に女性が担っている。それは死や異界に繋がっている。「芸術」もまた然り。「ものをつくる者」 多崎つくるは、芸術に連なる女性、シロ、クロに導かれる。男性であるアカ、アオは社会の枠の中で己の中の何かを誤魔化し合理化し隠蔽し、堪えながらその現実を生きる。


灰田はニュートラルなミスター・グレイ。男性でありながら中性的な役割を担う。(ここではホモセクシュアルのニュアンスとしてそれが表現されている)かたちにならない抽象的な学問と芸術、異界に連なる者。(彼はものをつくることは苦手だ。消費されるものである料理以外。)かたちをもつ、具体としての駅を作る「つくる」の裏面を構成する存在だ。

1Q84」繋がりで言えば、天吾が「あちら側」を「知覚するもの・レシヴァ」である巫女「ふかえり」と性的に結びつき、「受け入れるもの・パシヴァ」としての役割を担うことになる構図とそれは重なる。

シロ、クロ、灰田君は、三人で、巫女「ふかえり」ひとりが担っていた「性交」という象徴行為による「異界との媒介」の役割を分かち持つ。

先のつくるの性的な夢の中で、シロとクロはふたりともベッドの中で対象として登場するが、つくるが結びつくのはいつもシロだ。嘘をつき(或いは錯乱し)つくるを陥れ「ケミストリイ」を破壊した当事者、精神を病み、最後には暴漢によって殺される運命を辿ったピアニスト、可憐な美少女シロ。

(シロの中に射精した夢から覚めてみると、現実でつくるの精液を受け止めていたのは灰田君だった。それもまだどこか現実慣れした夜の夢幻のイメージの中で。…完全に「向こう側」に属する論理を超えた巫女であるシロと結びつく行為が、同時に違った位相において灰田君という理論的媒介を得るイメージ、という解釈はおそらく可能であろう。「1Q84」では、ふかえりとの結びつきが青豆の妊娠という現象に結びつくわけだが、ここで生み出されようとする未来は、ただ「つくるの未来への意志」そのものである。)

そうだ、贖われた巫女、シロなのだ。この世的なものにとどまりバランスをとり、外国で家庭を持ち、陶芸に打ち込む生活を送ることになったしなやかで強い現実存在としての完成されたイメージを持つ女性像、クロではない。クロはクロだけで完遂する。

外国で再会したつくるとクロは、クロの持っていた違うピアニストによるLe Mal du paysのレコードを共に聴く。

このシーンはひとつの結節点だ。つくるはひとり幾度も聴き続けていたその同じ曲に、そのシロの思い出の風景の曲に、異なる解釈と響きを、新しい発見の光を聴きとる。

「ただひとつの、ただそのものとしての、唯一の」現象としてのひとつの象徴の風景を孕んだその音楽が、新しい解釈の響きを持ってその風景そのものを、世界そのものを塗り替える。

クロと抱き合い、つくるはそのまま帰国し、己の現実と未来(沙羅との恋愛問題)に再び向き合おうとするところで物語は終わっている。

 *** *** ***


言葉を失った巫女「ふかえり」、あちら側に近い狂気に吸い込まれていった「シロ」。何かを欠損し「あちら側」に片足を突っ込んだ状態の彼女らを媒介として、物語を紡ぐもの天吾、たくさんの人々のさまざまな人生の流れを支える駅を愛し、その運営に身を捧げるつくるは、共に、あちら側とこちら側を共に耐えながら新しい物語、未来を紡ぐ者である。

つくるは、クロに言う。自分はカラッポの器でいい、人との関わりの中で、その中身を支える喜びを支える器になれればいい。メディアとしての駅を愛する、入れられる物語内容によってその存在の意味解釈をどんどんと染め変えられる、唯一絶対の真実の物語などもたない、ただそのものとしての、世界、人生、現象。その舞台としての駅を支えるという象徴行為が、駅をつくる行為だ。

…世界をカラッポの舞台として、そのたび染め変えられる真実を、すべて同じ真実として、そのものとして愛する、ひとつの主体のかたちである。

この物語にきれいなオチはない。
シロの狂気と悲劇の理由はわからないままであり、未来へと向かうべき謎の多い本命の女性、沙羅との未来にも、他の恋人の存在など障害が示唆されたままの終わり方だ。

続編があってもいい。だがなくてもいい。
いつも思う、村上作品の終わり方だ。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年