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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

富安陽子さん講演会@国分寺並木図書館

図書館で富安陽子さんの講演会があるというので、行ってきた。ちょっと前の話だけど。

6月2日、日曜日の昼下がり。

彼女とはデビュー作で出会った。「クヌギ林のザワザワ荘」1990年。

クヌギ林のザワザワ荘 (あかね創作文学シリーズ)

クヌギ林のザワザワ荘 (あかね創作文学シリーズ)

これだけでもう、「これはもう絶対大好き、これから追っかける。」と心に決めた。

夢中になったんである。

それからは、出版されるたびに楽しみに追っかけて読んだ。
期待は裏切られず、プロになって作品はどんどん洗練され、作品世界も多様性をもって広がっていった。

日本の身近な妖怪モチーフのお話が多く、ユーモアのセンス、暖かさも、自然(=妖怪)のちょっとひやっとするような怖さをきちんと描きこんだ深みも、とても素晴らしい。いつもいつも次の作品を心待ちにしていて、出るとうわあっと飛びつくようにして必ず読む作家さんのひとり。


ファンって言ってもいいと思う。


だから、司会の方の紹介を受けて登場される瞬間、どんな人なんだろう、と、ちょっとどきどきした。

凛と背筋を伸ばして登場した長身のその人は、可愛らしいボブヘア、お洒落で都会的なセンスの服装、常に笑いを含んだような明るい瞳をした素敵な女性だった。

そして、彼女は思いがけないほどお話上手のストーリーテラー

いわく、「ホラ吹き一族」に生まれ育った生い立ちをあたたかいヒューモアでもって語り出す。作品のテーマとなる妖怪の物語は、いつも妖怪話を実際の体験談のように物語ってくれたお祖母さまのお話が原点だったという。

お風呂掃除をサボるとアカナメがやってきてなめられる、とか、乱暴に靴を脱ぎ捨てると、スネコスリに転ばされる、とか。

そこには、自然と人の営みの関係に関する、驚異と畏怖、親しみとわくわくの混じった民俗の暮らしの知の体系が息づいている。そして個的な感性からいえば、それは寧ろ、センス・オブ・ワンダーの育成。

それに、スケールの大きな大法螺を孫に語る飄々としたお父さまのことや、真剣に子供におとぎ話を信じさせようとした叔母さまたちの愉快なエピソードが重ねられて、楽しさ明るさを大切にする知恵をもっていた家族の日々の優しい空気がふんわりと思い浮かぶ。

このような、幼児期に育まれた妖怪ワールドの下地に、読書という要素が組み合わさって、陽子さんの現実社会生活と二項対立を成す(或いはそれを支える)妖怪=読書=知的精神的内面ワールドはぐんぐんその個性の必然を深めてゆく。

物語の楽しさ。想像と創造の力が世界を羽ばたく心の解放感と、躍動する世界の不思議を発見するわくわく感。

心の外側でどんな理不尽で厳しい大嵐が吹き荒れたときも、心の内側、水面下の自由な自分の世界をしっかりと持っていれば、そこは心が傷ついて壊れたりしないように支え守ってくれる場所となる。生きる力の源泉を守ってくれる。癒してくれる場所となる。

例えばメアリーポピンズの、ばあやや家庭教師、公園や子供部屋、サーカスからやってくる古き良き伝統的ファンタジー、英国土着の不思議な妖精の世界の豊かさ。


日本にあっては異国情緒的な憧れのフィルターのかかっていたものであったその意匠は、陽子さんによって、畳と横丁の駄菓子屋、路地や空き地、やまんばや妖怪の世界、現代の日本に息づく生きた土着のファンタジーとして花開いたのだ。


幼児期に形作られた妖怪たちへの親しみと畏怖、異界の世界観のベースに、学童期の読書による世界各国の豊かなファンタジー世界の広がり、そして、中学、高校へ長ずるにつれ広がった歴史や推理小説の知的なドラマツルギーが豊かな作品世界の系譜を形作る。

物語の手法としてそれらの技法の面白さを自在に取り入れた彼女の多様な作品世界。そのデータベースの秘密の一部を垣間見たような、そんな見事な流れに構成されたお話だった。

 ****

彼女の作品群は、基本的に現代の日常世界と異界(日本の伝統的な妖怪世界)二つの世界の関わりの物語がベースとなっている。

その比重が妖怪側、自然の営みの豊かさを拠点として、「やまんばあさん」や「スズナ姫」シリーズの暮らしぶりを描く楽しさに展開されたり、主人公の子供の側に寄り添って路地から町に住む妖怪ワールドに出会う「オバケ医者ホオズキ先生」シリーズや「だんだら山のバク博士」に展開されたりするワケだ。

ドングリ山のやまんばあさん

ドングリ山のやまんばあさん

小さな山神スズナ姫  (小さなスズナ姫)

小さな山神スズナ姫 (小さなスズナ姫)

だんだら山のバク博士 (理論社ライブラリー)

だんだら山のバク博士 (理論社ライブラリー)

内科・オバケ科 ホオズキ医院 (おはなしフレンズ!)

内科・オバケ科 ホオズキ医院 (おはなしフレンズ!)

どの妖怪も、古典妖怪の世界に閉じこもっておらず、その独自の性格、パワーや魅力を保ったまま、生き生きと現代の人間界と関わりながらそこに対応して生きる姿として描かれる。

人間の流行のお洒落やテレビ、ゲーム。その文化の楽しさにハマるキツネややまんば、のっぺらぼうの姿は実に人間臭く(?)ユーモラスで可愛らしい。

だけどやっぱり、一番思い入れがあるのは、デビュー作「クヌギ林のザワザワ荘」。
彼女の、妖怪に対する思想的定義、原点が、一番端的に、且つ、熱く語られていると思う。

なにしろしびれちゃうほどかっこいいのは、妖怪「アズキトギ」だ。
スナフキンみたいにクールでかっこいい。

自然や神、妖怪の荒ぶる側面をも、よい面も悪い面も「ただあるがままのそのもの」として、自然、宇宙の摂理をまるごとただ受け入れる思想を、彼は語る。


…アズキトギは、人間の魂を捕まえて飼う妖怪なんだけど、穏やかで知的。
猫に親切にしたのが縁で妖怪のためのアパート「ザワザワ荘」に住むことになった矢鳴先生ととてもいい友人になる。

けれど、どうしても魂を捕まえるアズキトギの行為に心が痛んで仕方がなかった矢鳴先生は、ある夜アズキトギの部屋に忍び込んで、閉じ込められた魂を逃がそうとする。そしてそれはすぐにバレてしまう。

そのシーンである。

「どうしても、こうせずにはおれなかったのです。」
と友人への裏切り行為にうなだれる矢鳴先生に、彼は言う。

 ***

「いつでも、だれでも、そうです。(中略)理由なんて、いいわけのようなものです。妖怪も、虫も、草木も動物も、いつもただ、そうせずにはおれないから、そうするものなんです。ミツバチは、そうせずにはおれないから、花粉をふりまきます。木や草が実をつけて、鳥たちに食べものを与えるのも、だれかを思ってするのではなく、ただ、そうせずにはおれないだけなのです。自然の中のあらゆるものは、どの一つを取っても、知らず知らずに自分の役割をはたし、それがときに、だれかのためになったり、また、だれかに害をおよぼしたりするわけです。」
(中略)
「あなたがもし、魂をにがしていたら、その中には、悪い魂もあるかわり、よい魂もあるでしょう。あなたがしようとしたことも、やはりよい面と悪い面があるのです。ものごとは、すべて、そういうふうです。よいことも悪いことも、いつも二つで一つなんです。」
(中略)
「魂を集めるというだけでアズキトギを、おそろしく、悪い妖怪だと思わないでください。(中略)われわれも、あなたが仕事のじゃまをするからといって、あなたを悪い人間だとは思いません。だれでも、自分がそうせずにおれないことをしているだけのですから、それに…」
アズキトギは、また、光る目で先生を見つめると、ゆっくりと言いました。
「それに、わたしたちは友だちではありませんか。」
冷たい風の中で、先生の心はポカポカしてきました。

「ああ、そうですね。みな、それぞれにちがっているけど、ぼくたちは友だちです。」

 ***

ここでは大雑把に、妖怪=自然=自然、と捕えていいと思う。
恵みの神も荒ぶる神も、人間の都合や個人の感情とは無縁に、ただただ、一定の自然、宇宙の摂理のもとに運行している。

毒草も薬草も、益虫も害虫も、人間の都合で悪者、イイ者にされてるだけで、草も虫もただ与えられたかたちでの生命を生きているだけであるように。

人間社会の、閉ざされた、ゆえに常に相対性を孕んだ多様性としての倫理や価値観の相剋の苦しみは、そのようなある一定の条件の下での倫理や価値観を奉ずる者たちが、各々の優位、絶対性と正義にしがみつくという誤謬からやってくる。

他の価値観を否定しなければ成立できないくらい狭く寂しいその閉塞。

価値観、人を裁くもの。
それは他人を裁く優越の快感を生み、己を裁く内面の牢獄を生む両刃の剣。そしていわゆるモラルハラスメントの温床だ。

だが、もし、その「外側」にあるもの、「善悪の彼岸」への認識があるならば。

誰も「悪」に対して悲憤慷慨して正義の味方になる必要はない。唯一の真理や正義によって人を責めることも自分を責めることも必要ない。国家やイデオロギーや権力者によって心が支配されることもなくなるだろう。

ただ、「みながそれぞれに違っていること」の平らかさ、相対性の当然、そして、各々がそうせずにはおれないから生きている、というまっすぐさを見失わないというおおらかな認識。

もちろんそのような究極の真実は、限りなくカオスと虚無に近い、一種冷ややかな抽象としての知のかたちである。

だが彼女の作品にあって重要なのは、そこはただ、いきいきとした現実の「具体」のための前提、出発地点である、というところなのだ。

…運命と自然の「法(ダルマ)」その巨きな抽象的な必然の中にただ意志なく諦念でもって従っているのではない。その巨きな世界に抱かれている己の小ささを前提にして、けれどもその与えられた時空と立場の中で、縁あって心を通じ合わせた「具体」がある。

「友だち」。その縁は、均質性の中にではなく、多様な価値観を否定しあうことなく、それでも、お互いがただ与えられた立場でお互いによりよく幸せであろうとするピュアなあたたかさへの意志と幸福の中に存在する。個は個としてその存在まるごとを認められ尊重されるもの同士として存在する。

そうだ、あたたかいのだ。
彼女の作品世界には、荒ぶる自然や妖怪の恐怖に一方的に支配されてしまう要素はない。あるのは、人間の今の文明と折り合ってゆく楽しい方向を夢見て模索する理想への祈りである。双方を行き来するワクワクや楽しさ、純粋な生命の喜びのための古くて新しい摂理を探る。


…だって、この作品のストーリーは、矢鳴先生の夢に満ちた科学的な研究と、水の精の魔力との連係プレーで、山を襲った日照りの危機がドラマチックに乗り越えられる、なんていうファンタスティックなものなのだから。

人間の文明文化と妖怪世界の関わり方の、いきいきとした冒険やあたたかいユーモアにみちたやりとりのモチーフ、本当に素敵だ、と思う。


…昼下がりの図書館、優しい時間。

ああ。ほんに魅力的なひとだったな。ああいうひとが先輩だったりお母さんだったり友達だったりしたらいいのに。近くにいたら、いろいろくじけそうな気持ちのとき、閉ざされて追い詰められて怖い方へずり落ちてしまいそうな気持ちになるとき、強い優しい明るさのオーラに支えられそうな気がするよ。

日本のメアリーポピンズ、「菜の子先生」みたいな素敵なうわっぱり風ワンピースもとってもかっこよかった。私も欲しいな、なんて思ったのはちょこっとナイショである。