- 作者: ケイト・トンプソン,渡辺庸子
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2006/11/18
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ガーディアン賞とウイットブレッド賞児童書部門、ビスト最優秀児童図書賞受賞作だそうだ。
富安陽子さんの、日本の妖怪ワールドを現代日常生活と滑らかに結び合わせる、あの構造を思い出した。アイルランドヴァージョン。富安陽子さんの優しいユーモアよりも、もっとずっと巨大な深刻さを湛えてはいるけど。
…とにかく、おもしろかった!現代の中で、時間がどんどん足りなくなる。妖精の国に漏れて行ってしまっていたのだ。
この設定、よくある、アフォリズムとか示唆に富んだとか、エンデのモモみたいな、啓蒙的ファンタジーかと思いながら読み始めたんだけど、さにあらず。アイルランドのケルト妖精神話を巧みに現代に繋ぎ合わせた、わくわくするような魅力的な面白さをもったファンタジー。
アイルランド独特の音楽やダンス、風俗が非常に魅力的だ。音楽の描写が素晴らしい。妖精との関わりを、妖精の子孫や力を身近に日常に感じさせる、世界感覚。キリスト教によって圧殺されかけてしまったケルト世界の信仰のことが、いろいろと知りたくなる。
続編も読もう。楽しみ。
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ということで、二作目。
前作が面白かったので、楽しみに二巻目を開いた。
裏切られない面白さ。
アイルランドの独特の神話的世界観を現代と絡めた、多元宇宙を想定する、見事な構成、ストーリー、哲学性。
死と時間の観念が欠けているために、一種薄情とも思える無責任さを特徴とし、漱石のいう「非人情」に近い、自然、シンプルな妖精族の価値観。
その音楽とダンス、歓びと芸術そのものとしての生命のありかたは、「こちら側」、老いて死すべき人間の日常、文明が自然を搾取する、美しさを損なう社会への痛烈な批判を打ち出す、自然破壊の精神をあぶり出す、異化のための「もうひとつの価値観」を想定してみせる。
前作で少年として活躍した、妖精族の王を祖父とするJJが、この作品では親となり、妖精の取り換え子、ジェニーを育てるのだが、今回は、このジェニーが主役である。
妖精界と、人間界、そして、世界の多層を渡り歩く、超越次元存在、神、或いは悪魔を思わせる謎の山羊、プーカ。
三つの世界それぞれの価値観、思惑が、どれが善悪というでもなく、ただ三つ巴となって絡み合い、最後に、うつくしい世界を損なうものである人間を滅ぼしてしまおうとするプーカの思惑を、妖精と人間の間にあり、プーカを友としていた要の存在のジェニーが、妖精界の王や人間界の部族の王の子孫、その幽霊たち皆と、阻止する。
クライマックスの、ダイナミックで意外な種明かし、親と思っていたJJに裏切られたと思い傷つき悲しみ、人間を滅ぼすことに同意したと思われたジェニー、JJや息子のドナル、友人の、老いたミッキー、妖精王まで呼び出されてきたオールスターの活躍ぶりが、ぎりぎりのところでプーカの人類殺戮を見事にかわし、世界を救いだす、そのスリル。
いのちを失い幽霊となる瞬間に、人間界の守り人となったミッキー、彼のためにJJの弾くフィドルの見事さが、妖精界にいた妖精王のよろこびを呼び、人間界に現れた彼が、世界に奇跡を起こすうつくしいダンスを見せるシーンの圧巻。そのひとときは、すべての種族を超えた、共通の、うつくしさへの純粋な思い、祝福された 世界のありかたへの感動的な永遠の思いを、人々の心に刻みつける。
三部作、最後のも楽しみ。
世界の終わりと妖精の馬 上 (時間のない国で3) (創元ブックランド)
- 作者: ケイト・トンプソン,渡辺庸子
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- 発売日: 2011/05/28
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世界の終わりと妖精の馬 下 (時間のない国で3) (創元ブックランド)
- 作者: ケイト・トンプソン,渡辺庸子
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エネルギー問題や、自然破壊、物質的な欲望に支配された消費社会への批判は、当初から、この三部作の通奏低音として鳴り響いていたものだが、最終作にいたり、このテーマが全面に押し出されててくる。
そして、二作めの「プーカ…」で押し広げられた重層的な世界観はさらに猛烈に壮大な時空へと広がり、淡々とした語り口のままに、文字通り近未来の凄惨な「世界の終わり」と新たなる始まり、新たならせんを描く神話の始まりまでが語られている。
第一作目では、アイルランドの田舎のひとつの村、家族、少年と、ケルト神話、伝説の中の妖精たちの住む異界との秘密のつながり、といった日常性に密接した世界や、ケルト的世界観vsキリスト教、といった信仰の問題であったものが、ここまで広大な多層宇宙、多層世界に広がってゆくとは…そしてその世界間のダイナミクス、そのありようが、物語として、また猛烈に面白いのだ。
さて、妖精の使える魔法は、本質的なものではなく、一時的な、めくらまし。魔法で出した金貨は時間がたてばもとの石ころ、ごちそうは、胃袋のなかで、もとのガラクタに戻ってしまう。
妖精王を脅してご馳走を出させ、食べて腹痛をおこす愚かな独裁者という光景を眺めたドナルは、遠い昔の豊かな物質文明(今の私たちの時代)の正体を外側から回顧する。
「それは遠い昔に、マスコミや広告主の企業が、すべての人々からある種の分別を失わせるために、たくみに使った"魔法"のことだ。彼らは、健康に悪い食べ物、人を愚かな犯罪者に変えてしまう飲み物、その他、何や国もたたないガラクタの数々を、宣伝という名の魔法によって、これがなければ自分は生きられないとだれもが思ってしまう品物に仕立てていた。そして、人々は釣り針のエサに食いつき、釣り糸から錘までのみこむ貪欲さで、業界のお偉方や宣伝担当者たちが期待したとおりの存在に落ちていったのだ。消費者の心を底なしに引きつける見栄えのいい魔法には、結局のところ、真の価値など、なにひとつなかったのに。
そして、その結果は? この世界だ。資源が浪費しつくされて、温暖化が進む一方の地球と、もはや絶滅の一途をたどるしかない人類の姿だ。」
二作めの、プーカ、山羊の姿をした創造主が、人類を滅ぼそうとして、その怒りを語った時も、「私の作ろうとした美しい世界を汚し食いつぶす、愚かな欲望の」というような科白があった。
そしてしかし、またここには、三部作を通じて鳴り響いているもうひとつのメロディがある。
貪欲、利己、愚かさへの怒りと悲しみに対する、救いとしての歓びと救いの主旋律、それは、芸術、音楽への、純粋な歓びと愛だ。妖精も神も人間も、すべてが等しくつながるところ。
ここでも、物語の中で、音楽は大きなパートを占めている
世界に危機が訪れたとき、人々を苦しめる独裁者となった弟エイダンは、ひたすら権力と我欲のために物資を独占しため込んだが、兄ドナルは、必死でこの世界での人類の宝、遺産として、文学、芸術を残そうとした。
結果として、その必死の思いが、妖精と神の嗜好に合致したために、三者の存在のバランスは新しく建て直されることになる。ひとつの世界が滅びたのち、新たな世界創造へと未来はつながってゆくのだ。
気まぐれな妖精王ダグザが、滅亡してゆく地球から、永遠に平和な妖精の国になだれ込んだ、避難民、人類に対して腹を立て、追い出そうとするのかと思いきや、一緒に持ち込まれた楽器や楽譜に興味を示し、オーケストラを編成しようとするくだりは、実に痛快である。
いつでも燦々と日が照り、平和で陽気なひとびとが歌い踊り、飢えも死もない妖精の国。生き残った人類はそこで妖精たちと暮らす。そして、罰として人間界に残されたけれど、いつか、許されてその国に戻されるのだ、というその記憶を神話として語り継ぎながら、新たなひとくみのアダムとイブが、新しい世界を構築してゆく、見事なエンディング。
ほう、とさまざまな価値観についての思いを心の中にめぐらせながらの、快い読後感。
良書である、と思う。