酔生夢死DAYS

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ガース・ニクス「古王国戦記」三部作

ガース・ニクス「古王国戦記」三部作読了。

ボリューム上、三巻に分かれているが、三部作、というよりも、Ⅰ「サブリエル」は独立してとりあえず完結、そして続編としての、Ⅱ「ライラエル」、Ⅲ「アブホーセン」が前後編として二部構成になっている。


Ⅰ サブリエル、世界観設定

この作者の作品は、とにかく世界観、世界構造のスタイルの独自性、その複雑さに特徴がある。

神話的な物語性、創世記の謎解き要素を敷いたダイナミックで魔術的な世界の成り立ち方。
「始めに、ロゴスありき。」を思い出すような、言語の呪術性の視覚化。これらが、確固たる世界構成の理念に基づいた強烈な力強さをもって、物語の魅力、牽引力となっている。

「サブリエル」でも、冒頭から、いきなり、一種異様な世界のありよう、その設定の巧みさにひきこまれる。

九つの段階によって完全なる死に至りつく、冥界の川の流れのありかた、そこと行き来し生死に干渉する特殊能力を持つネクロマンサー、そして、正しい秩序世界を構成するために、世界に瀰漫する正義の力を象徴する、チャーター魔術の存在。人々はチャーターによって魔なるものから守られて生活している。

これが古王国の世界設定である。

そして更にもう一段階、この古王国と、チャーター魔術の築いた壁によって隔てられたアンセルスティエールという、魔術によらない、近代ヨーロッパと思われる、科学技術ベース世界が設定されている。


「サブリエル」は、冥界での卓越した力を持つ父アブホーセンと古王国での出生の謎を持ちながら、アンセルスティエールの寄宿舎で育った少女サブリエルが主人公。

父の血筋の能力と運命を受け継ぎ、代々のアブホーセンの下僕だが、敵か味方か判然としない、謎の白猫モゲットと共に、正当な王位継承者タッチストーンを救い、助け合いながら、故郷古王国の危機を救うスリリングな冒険物語である。

冥界で死霊と戦い、正しく葬りさるためのベル、呪文、祖先の謎解き、試練、サブリエルの己が使命への覚醒、恋などの波乱万丈、魅力的なキャラクター、凝った冒険映画仕立ての強力な面白さで、長編ながらぐいぐいと読ませてくれる。

ラストは、サブリエルの父アブホーセンが、弔いのベル、アスタラエルを打ち鳴らし、己の生命を永遠に失うことによって、敵役の権力の亡者、死霊ケリゴールをともに葬り去り、サブリエルにすべての命と試練と使命を託してゆくクライマックス、実にこれ自体見事な構成で完結したひとつの物語だ。


Ⅱ、世界の成り立ちへの遡及、善と悪、「モゲット」


そして、後日談として始まるのが、「ライラエル」「アブホーセン」である。

ここで、物語構成は、時間軸の要素を絡めながら、さらに複雑化、善悪二元論以前の、古王国創世、生死の神秘の謎解きにまで、テーマは押し広げられてゆく。

「サブリエル」で残されたままだった、創世記の謎、秘められた呪歌の意味、モゲット(チャーター魔術によって、アブホーセンの下僕としての拘束され、猫の姿に封じ込められた邪悪なフリー・マジックの存在、正体不明の魅惑的なトリックスター!)の謎まで、すべてがひとつの闘いの中で解き明かされてゆく、壮大な物語だ。

創世記に七人の聖賢によって封じられたはずの、原初の盲目的な死と破壊、終末のイメージを持つエネルギー体、破壊神のイメージを持つ「殲滅者」が、長い時間をかけて、復活を謀ってゆく、その危機の発現が物語の始まりである。

やはり出生の謎をもち、一族の持つはずの先見の能力を持たないコンプレックスに悩む少女ライラエル、アンセルスティエールで育ったサブリエルとタッチストーンの息子、サメス王子の二人の成長を軸に、殲滅者オラニスの復活を阻止する、試練と冒険の物語が織りなされる。

(しかし、いかんせん、大長編の大風呂敷。実は、広げられるばかりの謎、延々と続く主人公の心の葛藤、苦しみ、苦難の試練の連続に、いささか辟易、途中で挫折しそうになった。)

…が、それらすべてがひとつひとつの布石となり、最後の闘いへと収れんしてゆくラスト近くの物語の怒涛の流れ。それは、次々と解き明かされ、ことんことんと腑に落ちてゆく今までの伏線的な謎の解明によって新たなエネルギーを注ぎ込まれ、物語に深みを増してゆくとともに、ハルマゲドン的な様相を見せる最後の闘いの描写のすさまじさへと流れ込んでゆく。実に、この大長編で、今まで、大風呂敷を広げてひとつひとつ周到に用意された全てのイメージの断片の複雑さに比例した、カタストロフな圧巻である。

だが、いかに趣向を凝らした見事な構成の物語であっても、これが、たとえば「ハリー・ポッター」のような、ベースを人間心理ドラマに置いた善悪の闘い、という単純な二項対立であったなら、この深々とした読後感はなかったと思う。

正義の七聖賢(チャーター魔術)対、邪悪なフリーマジックの礎、殲滅者オラニス、という図式、そしてオラニスを再び封印する、創世記の出来事を予言として再現する正義の力。この物語の深みは、そのような善悪二元論に留まらないもうひとつの要素に由来する。


善悪以前。それは、どのようなものか。

…さて、物語には、ネクロマンサーの武器、七つのベルの名前の由来は、創世記の七聖賢それぞれの名と力を映したものであり、それが解き放たれるとき、オラニスを封じ込めた創世記の力が再現される、という設定がある。

しかし、創世記の歌に歌われた聖賢は、元来九聖賢だったのだ。
ある意味、己の存在を失うことによって世界の秩序を守ったことを歌われた七聖賢とは別の道を歩んだとされる、謎に包まれたままの残りの二人がどうなったのか、そして今ここでそれがどのような力と意味をもって位置するのか。

これが、善悪の闘いの物語のスタイルをとった、最後の戦いのキイとなる、善悪の彼岸へと読者を導くべく仕掛けられた「謎」だ。九人めは、最強の殲滅者オラニスであった。では、八人目は?

この謎が解明されるときが、実に、物語のクライマックスだ、と私は思う。

聖賢の流れを引き継ぐ聖なるネクロマンサー、代々のアブホーセンの下僕として封じ込められた、正体不明の存在、白猫のモゲットが、第八の聖賢イーラエルとして、最後の最後に、オラニスを封じるために味方の側につくシーンは、圧巻。

気まぐれで自分勝手の皮肉屋、食べること遊ぶこと自分が楽しむことだけが大切、残酷、正体は敵かもしれない、魅惑的な知識と力に満ちた白猫、トリックスター、矛盾に満ちた存在、いわば、アンビヴァレンツの象徴。「何故私を裏切る?」という殲滅者の言葉に彼は答える。「生きていたいからさ。」

彼のパンセの始点は、常に己の生きる喜びにある。決して見失わない。
食べること、日の光、草の匂い、自由…


私は、ここに、村上春樹の初期三部作での「鼠」の最後の言葉を思い出す。
人が、その固有の知性の原点が、そのアイディンティティが、あらゆる思考を超えて発見するもの、或いは選択するものは、一体なんなのか。

生きることを愛すること。
生きることを肯定する、考え抜いた末に発見する「考えない」原点のこと。


モゲット=イーラエル、彼こそ、純粋な、生きる力、世界と自分と自由のみを愛する、純粋にして盲目的な、世界=自己=存在=肯定の具現的象徴、倫理にも正義にもとらわれない、原初の生命、そのエネルギーの権化なのだ。


Ⅲ チャーターとフリーマジック、不評の犬

…さて、サメス王子と同行するこのモゲットと好対照をなすのが、ライラエルの友、「不評の犬」である。モゲットとの関わりを考えるとき、この存在もまた非常に興味深い。

創世、チャーターの秩序によって世界が成り立つ以前→以後は、カオス→コスモスであるという印象を受ける。

こう考えると、チャーター魔術とは、世界に流れる気のエネルギーを、倫理を旨とした秩序の力の流れに束ねたもの、フリーマジックとは、そこからはみ出てしまった邪悪なる力、という図式が見えてくる。

モゲットは、創世以前の古きもの、善悪を超えたカオス時点からのフリーマジックの存在でありながら、無理やりチャーターの拘束の首輪に縛られた体をなしており、自由で純粋なエネルギー体であるはずの自分が、アブホーセンの力によって下僕とされ、白猫の形に押し込められたことを、激しく恨んでいる。秩序の首輪が外されたとたんに本来の力を邪悪なフリーマジックの形として取り戻し、アブホーセンにむけて牙をむく、危険な存在となるのは、そのためだ。

だが、彼の魅力的なキャラクターは、限りある生命のかたちに拘束された白猫としての形の己をも楽しんでいる、秩序を(チャーター)を、拘束するものとしては憎みながらも、それ自体は愛している、というアンビヴァレンツに由来している。固定された概念、観念としての善にも悪にも、決して捕らわれることのない、その徹底した「自然」という立脚点。

サブリエルに、解放されたら、盲目的に荒らぶる神となってしまう自分を、再び拘束してくれ、と願うような不可思議な行動を採る彼のありよう、そこには、コスモスとしての秩序に縛られた限りある命の形の喜びへの愛、(けれど本来のカオスな無限の力と自由への憧れを失えない)という、まっすぐでありながら矛盾を孕んだ、たまらない魅力がある。

モゲットとは犬猿の仲「不評の犬」の存在の形は、これとは異なる。

彼女は、(雌なんである。)やはり、チャーター以前の、原初のエネルギー体としてのフリーマジックとチャーターの混合体としてその存在を成り立たせているのだが、モゲットのように、チャーターに拘束されているのではなく、本来の、チャーターとフリーマジックが、善でも悪でもない、ひとつの始源であったところのエネルギーの混沌としての形をもっている。

換言すれば、それは、チャーター以前であり、チャーターの生まれ出ずる、そのアルケー、その源、その意志である、ということができるだろう。種明かしをすれば、彼女は、創世の力、七聖賢の内のひとり、キベスであったものなのだ。

彼女は、何故、他の聖賢たちのように、創世された世界に瀰漫する要素としてその人格としての存在を散らさず、ライラエルに託された予言の中に犬の姿として蘇ることをひそやかに謀っていたのか。

答えは、次のようなところにある。
魔術的存在であり、生きるために食べる必要はないのに、彼女はライラエルに食べ物をねだる。彼女はこういうのだ。「食べるのが好きなんですよ。」

モゲットとおなじだ。生命の、その限りある形が、好きなのだ。
モゲットとのやりあいは、まるで、きかんぼうの弟と姉である。
常に、カオスとコスモスの狭間に接した「古きもの」。

秩序への意志を重んじてみせる代表する犬と、荒ぶる面を代表してみせるモゲット。同じ要素を表裏一体のものとしてもちながら、彼らはまるで、荒ぶる神スサノオと秩序の神アマテラスの姉弟さながらの関係にある。

…さて、この「犬」を生じさせたライラエルである。

先見の種族の中に生まれながらその能力を持たず、代わりに唯一無二の過去見の能力を持つことになるライラエルは、創世記の神話、預言のその力が尽きてしまうひとつの滅びのときにうまれ、先見が効かなくなる時代に、過去から汲み取った新しい未来への手立て、その意志と希望を、次の新たな時代のために見つけだし、行使する。新しい物語、新たな神話を作り出す存在だ。

彼女が過去見の能力で見るのは、冥界の流れの行き着く果て、個体の終わり、永遠の死の宇宙、生命の外、過去と未来がひとつとなる彼岸、星々の広がる宇宙だ。犬は、ライラエルの目覚めを助け、叱咤激励し、育て、孤独な彼女のかけがえのない唯一の友となる。

 そして、ライラエルの永遠の友人でありつづけることを誓い、封印のための最後の戦いで、再び、創世の際と同じその力をふるった後、犬のかたちとしての命を冥界へと散じる。代わりに、オラニスの一部を埋め込まれ操られで犠牲となった、サメスの友人ニックを、冥界から救い上げる。あたたかな、希望の未来、命の世界にむけて。

ニクスの作品は、暗い厳しい試練に満ちた苦い読書でありながら、常に、未来への希望と明るさを暗示させるほのかに清々しい余韻を残す。

サブリエル―冥界の扉 (古王国記)

サブリエル―冥界の扉 (古王国記)