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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

村上春樹「1Q84 BOOK3」 読了

http://d.hatena.ne.jp/momong/20090711

1Q84 BOOK 3

1Q84 BOOK 3

何しろ、BOOK1、2を読んだときの思い、内容を、ほぼ忘れてしまっていることと、昨今の慢性的寝不足コンディションで、切れぎれに、おまけに慌てて、乱暴に読んでしまったことが悔やまれる。

去年読んだときの、自分の感想
http://d.hatena.ne.jp/momong/20090711
を読み返して記憶をよみがえらせつつ、読む。(やっぱり、いつか、きちんと一気読みしたい…巷で期待されているBOOK4をあわせた可能性も含めて。)


さて、それにしても、個人的には、BOOK3、物語の面白さから言っても、小説的な深みから言って、1、2には大分負けているような気がする。

これは、「ねじまき鳥」のときも感じたんだけど、出だしの「つかみ」で、文章の巧みさも含め、印象華やかに広げられるたくさんの世界の可能性、謎、思わせぶりなほどの伏線、世界の深みと広さを感じさせる猛烈な面白さ、が、終盤に向けては、ただそれをとりまとめるためにふうふうと収束してゆく、ような勢いの変化を感ずるのだ。いやこういうのって、もちろん、これ以上を望むのはないものねだり、小説としては、これ以上を望む必要のない、ただの必然なんだとも思うけど。

…とりあえず、トータルな印象としては、BOOK1、BOOK2でとりあえず投げ出されたすべての手持ちのカードを、BOOK3で小奇麗にとりまとめた、というものである。


★牛河とNHK集金人

 1、2、で、大風呂敷を広げられたすべての謎が読者に投げ出されたまま、BOOK2でこの小説が終わっても、もちろん不思議はなかったのだ。

 青豆は口にくわえた拳銃の引き金を引く、というかたちで、ひとつの物語を終え、そのとき、時空を超えた異界から、眠る少女の姿をしたままの青豆、そのヴィジョンとしての便りを受け取った天吾もまた、ひとつの物語を終え、二人は同時に、別の物語へと移行する。

 ひとつのうつくしいイデアへの方向性を示したクライマックスだ。

 この物語が、二人の子供時代の一瞬スパークした初恋「星の時間」(「人類の星の時間」(ツヴァイク))という純愛が軸だとするならば、そのふたつの非現実的、幻想的な、すべてを断ち切る跳躍は、決して存在しないイデアへの移行、という色彩を帯び、それは、すべての理不尽、しがらみ、その不幸な物語としての「日常現実」をすべて決済することのできる、ひとつの物語としては幸福に完結させる構造を為すものだから。


 青豆が、10歳だった天吾が30歳になって、けれど「その天吾の本質」のまま高円寺の公園で月を眺めているのを目撃し、天吾が空気さなぎの中に眠る青豆のヴィジョンを己のアイディンティティとして見出したとき、ふたりが再び「大人の現実現在時間」の流れの中にに発見したその接点は、その論理の跳躍は、ひとつの物語(BOOK1、2)の終わりであり、同時に、その続きとしての別の物語、BOOK3の始まりの示唆である。


 …だから、一旦、不可知のイデアの領域に投げ上げられた「BOOK3」の存在が、再び言葉として降臨し、実際に物語られたとき、2のラストで示されたそのクライマックス、跳躍を、既に過去の「物語」であるとして、ひとまず撤回する形で始まることは、必然なのだ。

 2のラストで示された、その「すべての救済への示唆」は、青豆を死から思いとどまらせた「小さな声」、別世界の光への可能性の啓示として脳内に刻印されるというかたちで二人の内部へと封印される。青豆と天吾は、それぞれが、その啓示、奇跡、「1Q84」二つの月の世界を逃れた元の世界、いや、もうひとつの、第三の世界としての「止揚された現実」への、二人の物語の可能性の実現への希望を胸に、「待ち」の姿勢で時間を凍結した隠遁の繰り返しの日常を送る。

 代わりに、3では、「現実社会」、外堀を埋めて暗躍する「牛河」という章が発生し、二本立てだった章が三本立てとなって、内部へ鎮静し、深化しつつも停滞する天吾と青豆の章を、外側から緩やかに刺激し、謎としての隙間をうめてゆく形が採られている。

 その、「牛河」の人物としての内面へのダイブを絡めた、彼の活動のシステマティックな小気味よさが、まず、3の面白さだ。「牛河」の人生のわびしさは、「天吾」の章のもうひとつの要素、天吾の育ての父「NHKの集金人」としての人生と響きあいながら、その哀れな最後へと向かってゆくものとなる。



…その哀れさ、痛ましさ、タマルに殺される、彼の最後の、その、あまりにもあまりな、桁外れの残酷さは、既に、哀れ、などというレヴェルのものではない。

そして、その不必要なまでの残酷さ、哀れさ、無念さ、痛ましさ。
これこそが、BOOK3における、表側の「キレイゴト」的な、青豆と天吾の純愛物語の成就としての、1984年から1Q84への移行、そして、更に、二人のための第三の世界へのジャンプ、という、きれいに浅くまとまり過ぎてしまいがちな物語の大筋を、暗黒側、裏面から支え、もうひとつの「異界」を構成する…悪しき側の「リトル・ピープル」に通じる「キイ」を構成する要素なのだ。

 BOOK1、BOOK2においては、青豆の章が引き受けていた、理不尽、暴力、闇、恐怖の要素。それは、BOOK3では、処女懐胎によって新たな小さな命の光を己の中に見出し、一旦否定した「牢獄としての神」を、新たに自らの魂の内部からの光としての神として再生させた青豆、いうなれば一旦死に、生まれ変わり、そして「天吾の章」と共振し、虚無や滅びから、神や未来、希望や愛への方向性を持つに至った青豆からは、取り除かれる。そして、代わりに、それらすべてを新しく引き受けるのが、この牛河の章である。…これが、第三の「牛河の章」の発生のメカニズムだ。

 光があるところに、闇が発生する、その必然の、善悪を超えたところにある、純粋な「世界の力の場」である、リトルピープルの潜む、混沌の「森」。

 幸福への、愛への、強い意志の力によって試練を越え、新たな第三の世界、未来への世界を開く青豆と天吾の「表側」へ向かう「力」の物語が、ひとつの奇跡の未来への子供「ドウタ」をはらんだ「空気さなぎ」を為すとき、同時に、牛河の哀れな遺骸から、「暗黒の側の力」として、リトル・ピープルが「空気さなぎ」を作り出す裏面の必然は、そこにある。


…さて、牛河の惨めさのもうひとつの姿として、天吾の育ての親、NHKの集金人の死が描かれている。彼は、己の人生に、ひとつのあきらめと納得を得て死に至る。

彼らの共通点は、与えられた運命の不幸の要素であり、「己の得意なこと、できることをやってきただけだ。」という人生を歩んできたところにある。

 彼らは共に、己の罪による理由でなく、不幸であり、誰にも愛されず、嫌がられ、憎まれながらも、その役割を演じる人生に甘んじ、寧ろそれを楽しもうとし、それにふさわしい死を遂げた。

 牛河が家族の中で、ひとりだけ醜く生まれついた、そのことに、何の罪があるだろう?
 そして、ただそれだけのために、家族からも誰からも愛されず、疎まれ、また、下手に有能であったために、その有能さは、悪しき側の自他への嘲りと憎しみの「力」に出た。
 
 天吾の父は、人から憎まれる役割、「汚れ仕事」を引き受け、有能に機能する己にアイディンティティを見出し、憎まれることに寧ろ誇りを持つことによって、また、天吾に許されながら、その寂しい人生を静かに収束させた。

 だが、牛河は、そこに収束できなかった。
 彼は、月が二つある1Q84の世界に巻き込まれ、ふかえりに覗き込まれることによって、己の魂の中の空洞に気付き、不幸と哀しみに気付いてしまった。

 目を背けたくなる、その無念の死の桁外れの惨さ、汚さ。
 彼の人生まるごとの、最後まで救いのない、その哀れさ、卑小さ、醜さ。
 
 カフカの「変身」のザムザをプレテクストとした毒虫のイメージを重ねながら、(「牛河は虫になったザムザのように」)彼は天吾のアパートを監視した。毒虫ザムザのようにわびしい部屋の中で体操をし、寒さに震えながら、毎夜「虫のように」寝袋に這いこみ、己の立場、その人生を思った。過去に家族を持ち、一軒家に住んでいたときの、自分がそのパーツをなしていた、失った典型的な幸せな家庭の図を遠く不思議なもののように感じ、幾度も思いだしていた。

 タマルに手足を縛られ、ビニール袋をかぶせられ、続く苦悶の中での汚辱と屈辱にまみれた死の瞬間に見た風景が、子供の頃に愛していた雑種の犬であったなら、その人生に、少しでも、誇りや意味や喜びと美しさ、幸福を見せてくれる記憶のものであったなら、彼は、空気さなぎの材料にはならなかったはずだ。

 そのとき、彼は、天吾の父と同じ立場である。

 だが、彼が最後に見た記憶の風景は、家庭を持っていたときの失われた家であり、血統書付きの嫌いだった犬の姿だった。

「彼は張り裂けそうな頭で中央林間の小さな一軒家のことと、二人の小さな娘のことを考えた。そこで飼っていた犬のことも思った。彼はその胴の長い小型犬をただの一度も好きになったことがなかったし、犬の方もただの一度も牛河を好きになったことがなかった。しょっちゅう絨毯を噛み、新しい廊下で小便をした。彼が子供の頃に飼っていた賢い雑種犬とはまるで違う。にもかかわらず、牛河が人生の最後に思い浮かべたのは、芝生の庭を駆け回っているそのろくでもない小型犬の姿だった。」


 家族も愛も得ることなく育った牛河が、己の「力と才覚」で得ようとした、「幸福な家族」の、その「かたち」は、内実を伴うことができなかった。妻とも娘とも結局心を通わすことなく、表側の弁護士としての事業に失敗したときには、すぐさま見捨てられ、ひとり薄暗い裏社会、汚い裏仕事を引き受ける稼業で、人々から疎まれながら生きてきたのだ。

 自分を排除した家族を、社会を、ひたすらに憎みあざけり罵りつつ、しかし、魂の深奥で、「それ」の持つ理想、表側の光の世界、愛と幸福を夢見、またそれが「真理でありえる可能性」を希求しない者が、あるだろうか?

 ひたすらに望み、望み、望み、そして、世界の理不尽によって、得られなかったもの。
 その「望み」は、歪んだかたちの、憎しみにまみれた、ひとつの志向「意志」の「力」或いは、「力への意志」となリ得るのではないか。

 理不尽の密集、その中に、納得する隙間もなく、ただ、その、世界の仕打ちに対する「何故だろう」の疑問のままに、無念の死を遂げた牛河の魂は、行き場所を持たず、その一部は第28章「そして彼の魂の一部は」において、「そして彼の魂の一部はこれから空気さなぎに変わろうとしていた。」ということになる。

 …リトル・ピープルに通じる原初の「力の場」としての混沌の「森」は、「(権)力への意志」によってその通路(マザとドウタ)を確保する。BOOK3において、それは、二つの通路の可能性を得た。表側の青豆、裏側の牛河。
 

 愛と幸福、輝きの第三の世界に踏み出すべく跳躍した青豆と天吾の生み出すドウタ。そして、牛河の生み出すドウタ。
 BOOK4があるとすれば、このふたつと、「森」から世界を支配する力をくみ出そうとする宗教組織「さきがけ」とのかかわりがきっとでてくる。

 …面白いかも。