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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

獣の奏者Ⅲ、Ⅳ「探求編」「完結編」読了

獣の奏者 (3)探求編

獣の奏者 (3)探求編

獣の奏者 (4)完結編

獣の奏者 (4)完結編

Ⅲの導入部分は、「ああ、続編、だなあ。」

と、闘蛇村の闘蛇の大量死事件の調査から始まる「エリンのその後」エピソード、後日談的なイメージがしばらく続く。

さすがさすがの物語の巧みな面白さ、優れた描写に感服はしつつ、読者としては、ゆるゆると続くⅠ、Ⅱからと同じテーマをそのままの匂いで引きずりながら、たらりたらりと辿ってゆく。

が、後半部、物語の流れが俄然勢いを増し、急流になだれ込んでゆくように、揺さぶられ、引き込まれてゆく。

登場人物たちの苦悩、哀しみや痛みや、政治的展開、構成の面白さや、…その、心を揺さぶり、深ぶかと突き刺さるような、人々の、それぞれの立場による、感情に、柔らかく寂しく、感情は揺れ動く。

だが、Ⅲを読み終え、顔を上げたとき、私の心に渦巻いていたのは、激しい「怒り」であった。

理不尽。この世の、理不尽。無理解。知性の欠如。権力構造。
ただ、ひたすらの、怒り、怒り、怒り。


そして、「Ⅳ・完結編」は、もう、ダア、と、一気読み。


…ああ、あまりの巧みな物語構成に、見事に踊らされ…ひたすらの、タメイキ。
「物語」の持つダイナミックな力、「小説」とは次元を異にする、その特性について、しみじみと考え、感じ入る。

語り継がれる物語の枠組み構造。
小説は、「個」の枠を、その内側を穿つことによって超え、「物語」は、「個」の枠を外側の方向に向かって超える。


救いのない、闘いと悲劇を繰りかえす、人間の愚かさへの悲しみと哀しみと絶望と呪詛。
だが、決して失われることのない、損なわれることのない、命のうつくしさや尊さ。


そして、ここには、大きなテーマとして「知」がある。
文化人類学者で、世界じゅうでフィールドワークの体験を経てきた著者の、「知」への思いがある。

「歴史」「文化」人が繰り返してきた愚行、生き物の仕組み、「自然科学」自然の原理、その面白さ。「私が組み込まれたものである、その一部である、ここにあるこの世界の理(ことわり)」の、それを知ることによる「実感」への、震えるような喜びが、人間だけの不思議な喜びの感覚が、ひしひしと伝わってくる。

「『面白いわよ。こういう作業をすると、なにが街を動かし、国を動かすのか、よく見えるわ。長い時の流れの中で多くの人々がくり返してきた選択と、愚行。そういうものを見つめていると、人というものが、どれほど多様で、でも、どれほど似ているかが見えてくる。』
クリウの話を聞きながら、エリンは胸の底が疼くような感覚を味わっていた。子どものころに、よく感じた衝動だった。なにか、自分がこれまで気づかなかったことーこの世を動かしている、目に見えぬ糸に連なるなにかが、すぐそこに見えそうになっているという、あの胸が熱くなるような予感。
『わたしはー』思わず、エリンは口を開いた。
『生き物の理(ことわり)を学んでいます。この世に生きる膨大で多様な生き物が、どうして、このように在るのか知りたくて』
『あなたがおっしゃったことは、人という生き物の、〈それ〉ですね。』
クリウの目が輝いた。
『そう!そうなのよ』」

「知」は、ここで、面白さと危うさ、利己的で凶暴な危険さと同時に、その表裏である、「最後の希望」をも意味する。

真理は、正義は、倫理は、唯一ではない。
すべて、相対性の論理のもとにある。

倫理の相対性。
それは、例えば、宮沢賢治が未完の童話「学者アラムハラドの見た着物」の中で、小さな生徒セララバアドに託したように。


…「さうだ。私がさう言はうと思ってゐた。すべて人は善いこと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄てる人も多い。おまへたちはいままでさう云ふ人たちの話を沢山きいて来た。決してこれを忘れてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥のうたはないでゐられないと同じだ。セララバアド。お前は何か言ひたいやうに見える。云ってごらん。」

 小さなセララバアドは少しびっくりしたやうでしたがすぐ落ちついて答へました。

「人はほんたうのいゝことが何だかを考へないでゐられないと思ひます。」

 アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼおっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんでさんさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。子供らがぢっとアラムハラドを見上げてゐました。アラムハラドは言ひました。

「うん。さうだ。人はまことを求める。真理を求める。ほんたうの道を求めるのだ。人が道を求めないでゐられないことはちょうど鳥の飛ばないでゐられないとおんなじだ。おまへたちはよくおぼえなければいけない。人は善を愛し道を求めないでゐられない。それが人の性質だ。これをおまへたちは堅くおぼえてあとでも決して忘れてはいけない。おまへたちはみなこれから人生といふ非常なけはしいみちをあるかなければならない。たとへばそれは葱嶺の氷や辛度の流れや流沙の火やでいっぱいなやうなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまへたちをまもる。それはいつもおまへたちを教へる。決して忘れてはいけない。 …


すべては正しく正義であり、人々は、ただ、その相対性に苦しむのだ。
霧の民「アーリョ」=知識の禁忌を守る民「アー・ロウ」

悲劇と惨事を避けるための正義の知恵として、王獣と闘蛇を武器として操る法、知識を特権化し、生命のかたちをゆがめ、知の隠蔽と禁忌によって、平和と秩序を保つ方策を選んだ、王祖ジェ。

長い歴史を経て、その禁忌が形骸化したとき、応用が利かない禁忌の知恵は、崩壊し、悲劇の再来を招く。


エリンに、最後に残される希望とは、徹底した「知」の存在への、救いへの、祈り。
すべてを明らかにし、自身の愚かさからをも逃げることなく直視できるかたちとしての人間を信頼し、あらゆる事態への応用をきかせることのできる「知」として、祈りとして、すべての人々へと投げ渡す、希望のかたち。

…そして、換言すれば、それは、ここでは「物語」への祈りなのだ。


エリンの物語を「知」として、神話から未来へとつなぎ、語り継ぐものの存在、エリンの息子ジェシの語りで、この「獣の奏者・エリン」の物語は、枠どられ、完結する。

獣の「操者ノ技」とその禁忌を語り伝えた「霧の民」を出自とし、その技を駆使しながらも、決して「操者」でなく「奏者」であったエリンの、その「うつくしさ」を、心に響かせる、決して男性には物語ることのできないこのエリンの物語、たくさんの人々の、たくさんの子供らの心に、伝わって欲しい、などと、つらつら思ったりした、春の一日。