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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

物語礼賛「獣の奏者」

獣の奏者 I 闘蛇編

獣の奏者 I 闘蛇編

獣の奏者 II 王獣編

獣の奏者 II 王獣編

てっきり、この上下二巻で、完結していたと思っていたので、油断していた。

続編、3、4巻(完結編)が出てたのだ
吃驚、慌てて図書館にリクエストを入れたときには、既に十数人待ち。

でも、1、2巻を読んだのは、もう十年以上前だから、実は、「大変面白かった」ということしか覚えていない。あと3人待ち状態になったので、スムーズに読み出せる準備、物語内容を思い出しておくために、読み返してみた。


…断片以外、殆ど忘れていた、自分の記憶力の悪さに、しみじみと感謝した。
優れた作品を一気読みする、幸福。

既に枯れしぼみ、死を待つばかりか、と思っていた我が前頭葉に、カンフルを打たれたような、刺激が巡る。

圧倒的な、暴力的なほどの「物語の力」にぐんぐんとただ引き込まれ、振り回され、快くひれ伏す、我が魂。

本当に、「おもしろい」ということは、何という「チカラ」なのだろう。
なんという素晴らしさなのだろう。

距離をおいた、さまざまに冷静な分析や可能性は、後から来る。
読後は、ただひたすら、物語に溺れ、感動にじいんと痺れた頭を本から上げる。

閉ざされた自我と自分の日常世界から一旦解放され、再びそこに戻ってきたとき、「私自身の物語」としての「世界」は違う新しい光をもって戻ってきた主体を迎えてくれる。



…「ロゴス」「言葉」「物語」とは、虚無、或いは、カオス、混沌から世界を紡ぎだす「光」だ。
 それは、「始原」であり、そうして「媒体」である。

「物語」を創造するという行為は、無限から有限への行為である。
物語は、世界を理解可能なひとつのロゴスに「閉ざし限定するもの」であり、また、その「向こう側」の意味の持つエネルギイ、源泉へと「解放する」メディアでもあるということだ。

言葉がなければ意味は存在しない。
換言すれば、「意味以前」は、「意味以後」にしか存在しない。

無限の混沌としての出来事から、ストーリーを読み出し、抽出し、プロットを重ねる。
物語軸に沿ったしっかりとした骨組み、緻密な構造は、物語の巧みさ、面白さだ。
そうして、その織りなされた緻密なダイナミクス、「面白さ」という構造物の上に浮かび上がるのが、うつくしい輝きをもつ色彩と、模様。

…「魂」の部分だ。
感動という力。優れた物語。


物語は、シンプルなエネルギイであり、両刃の剣だ。
基本が、不可避的に「わるもんといいもん、それ以外。」あるいは「寄り添うべき側とそうでない側、どちらでもないもの」にわけた、冒険活劇の面白さが、その構造の基礎だからだ。
(だから、私は、危惧するのだ。アニメーションやゲーム、映画となるとき、その力としての「面白さ」の刺激だけが、経済至上主義のこの世界で、浮き出してしまうことを。おいしいとこだけ安直に取り出して徒に刺激を強めた添加物コンビニ・フードになってしまうことを。静かな、小さな声、繊細な魂の部分を、読み落としてしまうことを。言葉を読みおこす力、考える直接の力こそが、個の魂に創造力として、響くのではないか、と、どうしても思ってしまう。加工度は、低い方がよい。添加物は、少ない方が、源泉のエネルギーの損失が少ない。食べ物も、物語も。)

注意深くその「向こう側」の模様を汲み取ろうとする、「自ら考える力」をもたなくては、正義の名のもとに残虐な暴力をなす快さに溺れるだけの多数の人間をうむ、諸悪の根源の力ともなる。


…さて、実際の内容については、書きたしと激しく思えども、とりあえず今日はもう、このひからび脳味噌、力足らず。
(また、3、4巻を読み通したときの、カンフル注射での一時蘇生を願う。)



読書という行為。
優れた物語、あるいは小説を読む行為。


現実が芸術を模倣するように、それは、「日常現実」という「自分の世界」が、数限りない、さまざまの意味の物語を綴りあわせて織られた総合世界である、という世界構造を、自己自身の世界認識の方法の基盤を、看破する機会ともなるのではないか、と思う。

これは、こないだ友人のとこお嫁入りしていった、お洒落なへたれ編みカエル君。

(しかし、嫁ぎ先で、どうやら「王子さま」に変身したらしい。)