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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

「コリアンダーと妖精の国」サリー・ガードナー

コリアンダーと妖精の国

コリアンダーと妖精の国

14歳になるまで、失読症であったという著者が、このような物語、「言葉」を、却って、常人よりも深く豊かに感覚していることに、驚く。

世界を感覚すること、把握すること、或いは、それと同義である、世界をあらしめること、創造すること。

…それは、ロゴスによって生きることを選択することであり、換言すれば、世界を「物語化」する、ということに他ならないのではないか、と思う。ロゴス、言葉、物語がないとき、世界は世界となりえない。「はじめに、光(ことば/ロゴス)ありき。」

14歳まで失読症で、自分の名の綴りもできなかったというイギリスの女性が、賞をとり、世界で読まれるファンタジーの作家になっているという。


図書館で、あれ、面白そうだな、と手に取ったファンタジー。
コリアンダーと妖精の国」サリー・ガードナー

「衣装箱のふたをあけると、そこは、こちらの世界とはべつの時が流れる妖精たちの国――。継母と邪悪な牧師から虐待をうけつづけ、殺されそうになったコリアンダーは、ふとしたことから妖精の国に迷いこむ。そこで、自分にかけられたおそろしい魔女の呪いの秘密を知り…」

失読症、という感覚が、未知の領域であり、とても不思議だけれど、それが、作家、という職業へと逆説的に結びつくドラマに、驚いた。

例えば、自分には手に入れられない、失われているもの、それへの「憧れの力」、が、逆に、その思い入れの激しいエネルギイによって、健常者としての人間に当たり前のものとして盲目的に享受されている感覚を、価値ある素晴らしいものとしてその源泉を見つめ、存在を崇め、それを鋭く純化し、とてつもなくありがい賜りものである、という、愛と感謝と祈りと歓びを感覚する。

彼女は、ひょっとして、聴力障害に襲われた音楽家ベートーベンのように、脳内で、単なる五感の感覚が、統合としてのイデア、抽象の領域にまで高められたときのように、「書き言葉」を、抽象の領域で分析、意味づけしている、のかもしれない。


…まあ、とりあえず、要するに、単純に、物語として、とってもおもしろかったんである。

そうして、この作品には、日常で消費され、消えてゆく、生活の「実用」「ツール」としての「話し言葉」に対するものとしての「書き言葉」という意味づけが、如実に浮かびあがっている部分がある。

実母に虐待されて育った女の子が、教育を受けることもなく、理不尽を言葉にすることができないばかりに、モラル・ハラスメントとして、「自分が悪いのだ」と思い込まされていた、哀しみの生い立ちを、コリアンダーに話し、これを話し言葉でなく、「文字に書き記しておいて欲しい」と願う、それ自体が物語となった一章だ。文字になったとき、言葉は、別のものになる。日常の意思伝達のツールではない、テクスト。ひとつの形を得ることによって、現場性、具体性を奪われ、抽象と権威の領域へと移行することによって、取り出され、(抽象され)固定されつことによって、逆説的に、時間を超えた、万人の心へと解き放たれる抽象の翼を得る、そんな両刃の剣として形作られるのだ。

世界創造の原理。


「頭の悪い」女子には、文字を習う必要はない、考えることは、頭のいいオトコに任せておくのが「神の正義」である、とされていた時代に、文字を習う、主人公コリアンダー。そうして書き言葉としての「知」からもぎはなされた弱きものに対する、さまざまの虐待。

これに対する作者の「思い入れ」を考えるとき、感慨がある。
この作者の感覚を、さまざまに考える。


物語としてのあでやかな面白さとは、また別に、印象深い。


日曜の食卓に、ひっそりと花を飾ってみる。