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酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

ジョナサン・ストラウド「勇者の谷」

イヴに読了、

勇者の谷

勇者の谷

…実に、泣かせるんである。
やっぱり、素晴らしい、この作家さん、この力量! …大尊敬の大好きだ。

バーティミアス」三部作で、感激した。
「勇者の谷」より、「バーティミアス」シリーズの方が、個性的、傲慢だけど憎めないキャラクター、そしてその内面の深い切なさ、生き生きとした魅力、物語としての猛烈な面白さや読む快楽、という面で、素晴らしいと思ってしまうけれど。

やっぱり、この作家さんの優れた知性と感性の透徹と、それらすべてを超えた、ひたすらに透き通る祈りの美しさ、作家としての才能、物語としての「面白さ」。

ぐぐぐ、脱帽の感服。


基本的に野蛮人の悪妻は、コトバも文化も骨格もカオのつくりも違うような、遠い異国の「外人」の感性は、宇宙人とおんなじだい、結局は分からないんだい、と切り捨てる、非常に狭量な貧しい知性の持ち主なのですが。

やっぱり、人間の「知性」や「祈り」には、すべて共通するものも、…やっぱりやっぱ、あるんだよなア、なんて、じいんとした、激しい、というよりは、だんだんに染み入ってくる、ボディブロウな、渋い鈍い深い感激の読後感に思ったりしているのです。


前半に顕著な、描写の生理的な不快さ、イライラ感を乗り越えて、(あまりの口当たりの悪さに、口直し、くちなおし、と、ほんのり甘い、大好きな、たかどのほうこさんの「すてきなルーちゃん」や茂木さんの新刊「つるばら村の大工さん」に、救いを求めたりしながら、取り組むような気もち。

…例えば、これら女性作家の童話が、確かに、正しく明るい、母の生命の基本に属する「世界」全体への驚きと喜び、愛の源泉に触れ、ただひたすらあるがままのうつくしい世界への祈り、母の論理に属する清らかに甘い水、とするならば、「勇者」の方は、「既に存在をはじめてしまった現世のあらゆる論理」を乗り越えようとする、父の論理に強く属する世界の水だ。

現実に、逃れ得ない、この世に渦巻く男性原理的なケガレに立ち向かう、「面白い、楽しい、興奮。」、社会と論理、構造と権力をつくりあげる父性の生命のちから、「物語」の「酔い」の力の中にある、「オー・ド・ヴィ」(強い酒を、「生命の水」と呼ぶ感覚だ)。)後半の、一挙になだれ込む興奮とクライマックスの「面白さ」。物語構成の巧みさ。失われない冷徹な知性と高潔な祈りの、相反するコンセプトのダブルバインドな両立。


ここには、物語の危険さと楽しさを熟知し、「物語」を、「作者の言葉」という、それ自体が物語である言葉で評価する、その不可能と矛盾を、注意深く避ける意識がすみずみまで満ちている。

ただ、物語をなぞる事によってのみ可能になる、それぞれの読者自身の知性による判断への投げ渡し、個々の読者の言語・物語論理生成の源泉へと「無言で投げ渡される言葉(メッセージ)」の、永遠に生成され続ける、言葉と物語のダイナミクス

つまり、その、「言語」による言語への批判、その「自身のうろんさ」の意識への示唆の意識だ。(この物語は、物語内の語り手によって語られる英雄伝説という物語から始まり、この物語自体が物語られる終章によって閉じる。見事な円環と、永遠に続く物語の歴史的ダイナミクスへと限りなく逃れてゆく構造だ。)



そうして、おそらく、すべての人間が逃れ得ない、否定することが必ずウソになる、マイナス面、「愚かさ」「汚さ」「醜さ」「みっともなさ」をすべてのキャラクターが持ち合わせているというリアリティ。

「義人はいない、ひとりもいない。」と言い放つ聖書の原理。
正義を振りかざし、他者を、悪として批判するとき、自己の内面に、同じ罪を認めない人間は、大いなる罪と過ちを繰り返すはずだ。戦争が、常に、大衆の、正義と名誉と信仰、自己犠牲の英雄たちのうつくしさへの感激と憧れに飾られていたように。

無辜でありえる人間はいない。



そうして、、ここで必然的に、みっとなさ、醜さを併せ持つ短足の醜男が、我らが主人公、ハリである。
英雄が美麗な美男であるという安心の快いシステムを揺るがす不快さ、常にダイナミクスを孕んだ仕組み。

「英雄」という言葉が、名誉と勇敢さへの憧れと美しさとかっこよさ、そしてその裏面としての残酷さ、と、常に逆説をはらみ、英雄のオモテの顔への憧れと、その完全な裏返しとして、己を無辜とし、英雄の残酷さを非難するだけの、単なる「否定」へと流れてゆく思考、双方を妨げつづける物語構造。

怪物退治の英雄スヴェンという英雄伝説を、各章冒頭に、巧みに取り入れ、その残酷さを強調しながら、その強さに憧れる人々やハリの愚かさを読者に印象付けながら、英雄のかっこよさに憧れる乱暴者の愚かな子供であったハリが、次第に、自分自身の体験から、自分自身の頭で考える、自分自身の物語を編む英雄へと成長してゆく過程を、この作品は物語る。

ラストにハリの見た、英雄スヴェンの哀れな幽霊は、「傲慢さと粗暴な誇りをふりまくだけの存在」形骸化された、美しい鎧に包まれた、ぼろぼろの腐った骸骨だった。

外側の鎧、それは、「英雄伝説」の美麗さであり、個を圧殺し、「今」の現実を縛り、閉じこめる、「システム(村上春樹のいう、「卵と壁」の、「壁」のところだ。個々の人の心を圧し、害するもの。)」の牢獄のメタファとなっている。



…イヤ何しろ、前半のハリの、英雄に憧れるばかりのお子ちゃまな愚かさとみっともなさから、後半のオトナになってくかっこよさのコントラストが、何とも快く素晴らしい。

ハリを愛さない極めて利己的に愚かな領民を救う為に奔走し、自己犠牲的に死への戦いにひとりで立ち向かってゆく、そのハリの、英雄に「お約束の」愛や勇敢さ、(物語の英雄的行為を演じきるため、死に立ち向かう恐怖をやわらげる麻薬の役割を果たす興奮材料)が、振りかざされる美麗な既成概念ではなく、極めて内面的、個的で巨大な哀しみや痛みによって成り立ってるとこが、泣かせるツボなんである。

「自分は真冬に生まれた子だから、悪い運命を背負って(中略)きっと、人生でかかわりあう人たちに災難をもたらす運命なんだ。(中略)以前なら、自分の運命をののしり、不公平だとなげいていただろう。だが、今はちがう。(中略)家にとんでもない不幸をもたらした。とにかく何をやってもうまくいかない。つまり破滅へとどんどん追い込まれているということだ。それでもすべての責任を引き受けたことでハリは心が自由になった。(中略)あきれるくらい不運が重なったせいか、ぎゃくに度胸がついた。もう失うものは何もない。」


もちろん、ハリの愛する少女アウドの、かっこよさ、魅力的なことといったら!
(やっぱりでも、ここで、女の子に限っては、醜いとダメなんだよねー。物語として。難しいんだな。)


クリスマスだったので、BGMは、クリスマスキャロル、灯りは、ほのほのとやさしいチョコレートの香りのキャンドルです。