読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

酔生夢死DAYS

本読んだらおもしろかったとかいろいろ思ったとかそういうの。ウソ話とか。

朽木祥「とびらをあければ魔法の時間」

とびらをあければ魔法の時間 (新・童話の海)

とびらをあければ魔法の時間 (新・童話の海)

この本も、やはり、絵がイイんである。
なんとも温かみの在る、優しい色遣い。

本を開いたら、その本の中身が生きて「こちら側」に、飛び出してくる、なんて感覚は、本が好きなひとならば、「おお、これぞ、夢憧れ!」の、永遠のテーマなのではないだろうか。(まあ、異世界、「向こう側」に入り込むっていう方が、ポピュラーだけど。)



音楽が好きで、おねだりして始めたバイオリン教室。なのに、どう頑張っても、自分だけうまく弾けなくなって、もう、ただ辛いばかりで、いやでいやで、ある日、お稽古をさぼって、途中下車。

このお話は、主人公の「わたし」が、そんな風にして紛れ込んだ、知らない町の夕暮れ時の小さな本屋の扉を開いたときのお話である。

そこは、開くと、内容が生きて飛び出してきてしまう、特別の本を棚にいっぱい並べた、魔法の本屋だったのだ。店番も誰もいない。レジ台の横にいるのは、陶器の犬だけ。

動物の本を開くと、うさぎや小鳥が飛び出してきて、お菓子の本を開けば、籠に盛った、食べられる本物のクッキーがふわりと現れる。さくさくで、ふんわりほの甘いバタークッキー。

突然動き出した、陶器の犬(白に、花柄模様をつけたお洒落な犬!絵がとってもきれいです。)や、本から出てきたうさぎたちと一緒に、ひととき、密やかに楽しいおやつタイムを過ごしたり。


そうして、いろんな魔法の本を楽しんでいるうちに、うっかり棚からバラバラと本を落としてしまったら、それが、音楽の本のコーナー。

たちまち、広がる、本の中に閉じ込められていた、生きた音たち。
それは、薄暗がりの夕闇の中、虹色に美しく輝きひらめく、とりどりの蝶の姿となって舞い上がるのだ。

とても、うつくしいシーンである。(なにしろ、絵がきれいー。)
ひっそりと居心地のよい、胎内のような薄暗がり、少し後ろめたい逃避空間、その一人の秘密の時間の隙間の中で、忘れていた、「音楽の歓び」が吹き上がるように思い出される、再生への、あでやかなその展開。


それは、新生のため、周囲の日常現実の中で倦んだ心のケガレを一掃する、静かなハレの祝祭空間。

その、あまりの音楽のうつくしさに、歓びに、「わたし」は、忘れていた、投げ捨てかけていたバイオリンへの思いをよみがえらせ、美しさを夢見る情熱、心の歓びの力を取り戻す。

そして、その新たな力に支えられ、レッスンに励み、躓きを歓びで乗り越える。これは、そんな、一種のビルドゥングスロマンである。


…さて、この、重要な魔法の小道具、「中身が生きて飛び出す本」。

本を読む人は、言葉の力で、感受性、己の心の力を鍛え、内部に己の世界を醸成する行為を繰り返している。(そうして、一見外的な「現実」とは、主体にとっては、内的な心の力が反映されてはじめて「現象する」事象なのだ。)

それ、「心の内部世界」が、枠を乗り越えて「外部」として具現する「魔法」と結びつき(魔法、とは、すなわち、通常の「現実の」過程のショートカット、或いは、異なる論理を持つ世界との境界破り現象である。)その心の力を具現化してみせるこの魔法のお店は、「本の中の言葉→読書行為→想像→具現化」をショートカットして、さらに、向こう側(頭の中に想像、創造された、本の中の世界のモノ)を「こちら側」に飛び出させてしまう、二段重ねになった魔法となっている。


本という、読書という、マジック。

それは、本来、(あくまでも、心の中で行われるのではあるが)このような「魔法」を既に備えているのではないか、と思ったりするのである。